信用という感覚

昨日に続けてみる。

信用する対象を人間と状況に分けてみよう。状況とは、市場とか道路とか何かの複雑な要素をまとめた状態のようなものを抽象的に表現した。分けた時に何か区別出来ることはあるだろうか。あるいは、区別する意味があるだろうか。

昨日の話と似ているが、どうしても一定の範囲内か否かの違いを重視するため、上の区別を比較しという意味で価値を認めていないようだ。では、素直に区別せず、別の観点で考えてみよう。

その重視する一定の範囲というのは、いわゆる普通という表現で端的になるのではないだろうか。かなり、説得力のある言葉に感じる。

つまり、普通と感じられる状況とか人間に対して、という前提が信用する心理状態にはあるのではないだろうか。普通と感じられなければ、信用する心理が働くとは思えないということだが、経験の豊富な者の例外が想定出来る。

例えば、日常の通勤や外出で、通常ありえない事件や事故を想定するだろうか。この問いは、どのような枠組みの想定とするか、で相当の違いがあると思う。単に、これから行動する想定と、世界中の人間の数百年の行動という想定という違いを考えれば、理解しやすいと思う。ここで、どちらが優れているとかの議論ではない。想定はその目的に応じるからだ。

何らかのの会話で、そのような想定の幅が理解出来る者と、出来ない者同士が行うことを想像してみよう。相互に幅の確認が出来なければ、不幸な事態になると予想出来るだろう。恐らく、会話の不成立の一因と考えられる。

このような不幸な事態を回避する努力も求められると考えて良いだろう。具体的な方法はわからないが、認識がなければ始まらない。

こうして考えると、どうも一つの傾向が浮かび上がる。それは、相手の会話に対して、借り物ではなく自分の考えであるか、ということを確認したいという気持ちのことだ。抽象的な言葉をどのような意味で使用しているか、みたいなことが典型的な例になる。

こちらは単なる確認のつもりでも、普通と感じられない者にとっては、上のような不幸な事態になるということだ。

さらに浮かび上がるのは、みんなとか一番とか、そのような定義するような言葉を軽々しく使う者と不幸な事態が多くなるような気がすることだ。

なんとなく、不幸な事態を回避する手軽な方法は、匂いを感じて逃避することだろう。何も解決しないが、不幸は回避出来るかもしれない。ただし、嗅覚を鋭敏にする努力は、正攻法とは言えないだろう。

択一を迫ることも同様だろう。ただし、家庭内では、数多く行われる問いと思われる。この場合は、要領を覚えることになるのだろうか。