疑い

信用の対称的な言葉は疑念だろうか。信用という意味で追求しても理解出来ないことが、対称的な言葉を追求して理解出来るかもしれない。

上の続きとしてではなく、単純に疑念を考えてみよう。疑念とは、想定することと異なる可能性を想定することだろうか。事件の犯人という可能性は、疑念と言えるかもしれない。この紙幣は、取引で通用しないかもしれないと考えると、疑念と言えるかもしれない。多分、そのような使い方に限定してしまうと、見えてこないような気がする。

多様な可能性を想定することと考えるとどうだろうか。確かに、疑念とはかけ離れている感触はあるが、当初の想定以外の可能性ではある。語感とは異なるが、この解釈も含めてみよう。

では、どのような条件で疑念は発生するだろうか。多分、この問いかけに意味がありそうだ。何らかの状態が継続しているとしているなら、状態自体の変化という可能性を想定するだろうか。つまり、状態が持続することを想定することを疑う根拠を認識しなければ、疑念の動機を失うのではないだろうか。

語感から遊離して、状態継続の変化の可能性という意味に達せられたとして、何らかの有意義な結論を導き出せるだろうか。

このことから直ちに導き出せることは思い浮かばない。ただし、近傍となるような連想はある。それは新たな認識をすることで、状態継続の意味とは異なるような感じはする。この連想は個性的かもしれない。

状態継続の最中に、何らかの新たな認識を獲得するとは、どのようなことと言えるだろうか。それは、外的状態の変化ではなく、内的状態の変化というものと言えるのではないだろうか。その解釈以外の解釈が思い浮かばない。

では、内的状態の変化とは、何かを考えるなら、脳内の状況認識の変化と言えるのではないだろうか。例えば、毎日の食事が同じ状況であっても、作ってくれた母に感謝する気持ちが生まれることは、そのような解釈として説得力がありそうだ。

では、一般的にそのような状況認識の変化は、有意義と言えるだろうか。恐らく、多数の試行と評価という意味ならば、有意義と考えられるだろう。つまり、実験みたいなものと考えるならば、ということだ。

果てしなく、個性的に思考してみたが、色々な解釈の可能性を模索することが習慣になることは、有意義かもしれない。

途中について、時間的に後の変化を根拠として遡及することは考えられるが、それはなんというか、当然過ぎて意味が余りなさそうな感じがする。否定はしない。

しかし、その習慣は養う価値はあるだろうか。それはわからないが、小説家みたいな職業は良さそうな気がする。