信用

信用とは何だろう。何かを信じることだとしても、信じる心理状態を表現したものと素直に考えて良いだろうか。多数の支持を得ようとするなら、何か厳格な表現をすることが好まれるような気がする。そこに信じる心理状態が表れているように思う。

厳格な表現とは、抽象的な言葉を使用した文章としてみよう。抽象的な言葉は、具体的内容を代表させると解釈するなら、具体的内容とは個別に区別したとは限らず、むしろ包含する意味を表さないと、抽象的な言葉の内容とは理解されないだろう。

つまり、抽象的な言葉には、その言葉を受け取った者が理解する個別具体的内容が含まれると解釈されて、抽象的な言葉を否定しないのだと考える。

例えば、平和という抽象的な言葉は、その具体的内容は様々だろうが、その言葉に自分なりの理解する内容が含まれると考えるから、平和という言葉を否定せずに使用すると考える。

厳格という意味なら、他と明確に峻別すると捉えることが素直だろう。すると、抽象という意味とは大きく異なるような感じがする。これは、先の仮定が疑われることだろうか。

先の例で考えてみよう。平和とは異なる状態を想像することは容易だろう。すると、異なる状態と明確に区別出来ると考えられるから、厳格という言葉が不適切とは思えないだろう。ということは、先の仮定の疑いは晴れたと考えて良いだろうか。

ここでは、既に別の言葉でこれらの事情を考察している。つまり、包括概念という捉え方で、そのほとんどを説明出来るだろう。その説明の重複は回避しよう。

信用する心理状態を抽象的な言葉で説明することは避けるが、上のようにその心理状態は不安定なものと考えられる。つまり、心理状態を一般的に解釈するように、その状態の因果関係となる要素を定義することは困難だ。

相手から信用されているとか、相手を信用するとか、ある状況を信用するとか、そのような人間の心理を根拠とすることは、社会通念としては許容されても、無制限に許容すべきではないことは明白だろう。

無制限ではなく、その使用を許容するなら、何か制約することになるのだろうか。

恐らく、その程度が同じ程度の通用範囲があると考えられる。つまり、それが疎通範囲とみなせる。例えば、仕事で疎通する相手とは、一定の解釈が共有化されているだろう。家庭も同様だろう。

では、不安定な心理状態をある程度許容することが出来ないこととは、どのようなことと考えられるだろうか。

様々な要因が考えられるので、それらを包括する説明は難しい。例えば、使用する言葉に相当の違いが感じられたり、解釈不能な行動だったり、想定外の状況だったり、そのようなことが想像出来るが、必ずしも許容が成立しないとは限らないことも言えそうだ。

色々と考えてみてきたが、その人なりの経験が豊富であれば、許容可能な心理状態の幅も広いと考えられる。つまり、経験を豊かにすることが大切ということではないだろうか。

経験を語るなら、理解不能な経験は沢山あり、それなりに色々と模索することになるのだが、納得するようなことにならない事態について、相手の能力不足と考え易い傾向を否定出来ない。多分、安易な結論を避けて模索を継続すると思うが、なかなか難しい。ただ、思考の世界だから他者への迷惑が皆無ということは救いだろう。