新人向け程度の課題

新人向け程度の課題を少しも進めずにいた経験者が複数いて、どのように理解すれば良いのか苦しんでいた。現在でも理解出来ていない。

要求水準として、予め技術的課題の程度を示していたので参加者を期待していたが、余りにも水準に達していない面子だから、今後の参加者を暗黙に期待して、練習のつもりで課題に取り組んだが、その際に新人向け程度でも全く進まないことに理解に苦しんだ。

能力がないことを理由とするのは、簡単だが、恥ずかしくないと思うのも理解出来ない。単に、やる気の問題なのか、別の思惑があるのか、みたいなおかしな方向に理解を求めてしまう。

水準を下げて、これ以下が思いつかないくらいにしたところ、わからないと言われ、何がわからないのかさえも説明出来ない状態で、ようやく怒った。その状態をどのように説明するのか期待したところ、逃げられた。

この話の全体状況を理解する者からの説明もないことから、その者も含めた何らかの思惑が存在したとしか理解出来ないので、理由はその思惑と考えているが、根拠のような情報がないので、推測はしていない。

このような経験があると、相手を信用することに慎重になる。というより、限定した範囲を心がけるように習慣づく。面白いかもしれない。

中核となる人間はフリーライダー的な周囲には、注意が必要だ。部分的に信用を得るために、接する機会と、それ以外の乖離を見つけたら、フリーライダー的存在を疑い始めるようにすると良いだろう。

とかく表面上の評価には注力する働きがあるが、裏方の地味な努力には要領よく過ごそうとする働きがあることも考慮する必要があるだろう。

自分や子どもの自慢でも、要領の良いことだったり、地味な努力を蔑むような発言には、上のような疑いをもっても良いと思う。

どうしても人間は、自分自身の努力に注意を集中してしまう傾向があるようなので、周囲への評価には評価としての努力も忘れずにしておこう。その怠りは、重大な損害をもたらすと心得ることだろう。

自然に信用する点を棚卸ししても良いかもしれない。失敗すれば、その点を改めるきっかけになるが、失敗がなければ、なかなか改めることにつながらない。必ずしも、今の自然な信用する点は最適とは限らないと考えることが必要だろう。

重要な点として相手に伝えても、相手が重要と扱わないことがある。このような事態を経験すると、工夫する必要を感じるだろう。それが、組織の場合では上司の勤めとも言えるが、一般化して考えると良いと思う。取引相手であったり、上司であったりするからだ。

信用は、二点で考えている。一つは能力。もう一つは姿勢。先頭の経験では、二点ともではある。真面目な姿勢でも、能力を超える仕事を任せることは出来ない。ただし、部分的に経験して成長する可能性はある。だから、有能と期待出来る部下に教育する意味で部分的に任せることがあるのだろう。

広い意味の教育は重要だ。職場で、そのような機会に恵まれた者は幸運だが、そのような機会がない非正規就業者への機会提供は重要だ。これは、社会的課題と認識すべきと思う。

製造業を軽視する考えではないが、現在の製造業を重視する政策は結果的に製造業を弱めると疑っている。社会として資本を積み上げるのは、設備より人的資本と考えているからだ。この話は別の機会で、詳しく述べたい。というより、既に触れているはずだ。

開放的になるためには、精神的な暗躍が評価される世の中を変える必要があるだろう。それが、先頭の経験からの主張となる。また、客観的評価という幻想を追いかけず、個性的な評価の多面性を受け入れる必要を感じる。

石垣は、石の個性を活かして見事ではあるが、一面で、固定的状態での評価に限定されることを考慮しよう。固定的状態ではなく、流動的とするならば、組み合う部分に限定して総体的評価で考えてみれば、時間的とか地域的とか多様な評価軸が浮き出てくると思う。つまり、ある状況から別の状況への変化とか、多くの状況に対応可能だとか、少ない要素で実現可能とか、評価軸そのものが多様なのだろう。

理解出来ない者を相手にする場合は難しい。理解の可能性を追求したら限度がない。投入可能な努力にも限度がある。どこを限界とするか、その程度にあらゆる状況に対応した正解はないだろう。難しい。