わからないことがわからない

北朝鮮の速やかな処置は、反対勢力を封じる狙いだと思う。そして、経済についての責任転嫁は、その関係者からの逃避を招いて、結果的に経済が落ち込む悪循環になると予想する。これからの経済の責めをどのように扱うのか、それが問題だ。独裁が進むというより、転覆が早まったのではないだろうか。

禅の特集が雑誌に組まれた。禅自体は理解してないが、個性的解釈として、二点頷く。一つは、強制的に環境を変化させて、認識の枠組みをそっくり取り替えてしまう効果についてで、もう一つは、認識や解釈について、その個人独自を尊重するということだ。

日常的或いは継続的な環境で、新たな考えは生み出しにくい。同一環境という条件で発想を変える訓練をしてなければ難しいと思う。ところが、例えば、登山によって人間の限界や可能性を冷静に判断出来るようになって、今まで執着していた考えにとらわれない豊かな考えが出来たりする。そのような効果が禅にあるのだと思う。

客観的な説明のようなものからの解放みたいな効果と考えた。他人と接すると必ず何らかの共通概念を要するが、その共通という働きを排除する環境によって、何かの新たな考えの誕生を純粋に尊重しているのではないだろうか。これはこれで、俗世間でも通用して欲しいような考えと感じた。芸術の世界は、恐らく独自解釈が許されているのだろう。それと似ている。社会性は、共通概念が一方では価値があるとされるから、なかなか難しい。恐らく、範囲を限定すると良いと思う。

禅とは何か、みたいな問いに対して、どのように考えるだろうか。多様で唯一解はないとしよう。仮に、上の二点を肯定して、どのような効果が期待出来るだろうか。

独自解釈の追求ということが考えられると思う。要するに、芸術的に独自の世界が許容されて、さらに哲学的に考えを深められるが説明の義務感からの解放によって追求の尖鋭化のようになると考える。つまり、脳内の感覚が働く部分と理屈が働く部分に大きく二つに分けたとして、感覚が芸術的で、理屈が禅的、みたいな感じだ。

これを誰かに説明するという不幸な事態を想像してみよう。それは、わからないことがわからない状態になると想像する。

もう少し詳細に考えてみよう。説明は、何らかのの言葉を介する。その言葉の意味は、発する側と受け側では異なると考えてみよう。しかし、異なることがわからない状態で説明が継続されると、誤解のまま続行される。

発する側も受け側も、互いに意味が異なることがわからない状態なのに、その状態がわからないのだ。受けを狙っている訳ではない。わからないことがわからないのだ。

このような禅的説明の不幸は、実は禅的なことに限定されないのではないだろうか。揚げ足をとるつもりはないが、例えば、原発の直ちに廃止する意味を考えてみよう。

廃止すると意味があるという前提にして、「直ちに」にどのような意味があるだろう。現在存在する原発が発電中は停止して、停止したら廃炉処理を行う、と定義してみよう。つまり、「直ちに」の有無の違いは発電停止と廃炉処理着手が「直ちに」実施されるか否か、と置き換えられる。そこに意味があるという主張と解される。

これが言葉の意味だが、その意味を説明出来るだろうか。感覚的なのか理屈的なのか、何らかの補足説明が必要だろうが、発する側は十分に理解しているつもりでも、受け側は「わからない」ことがあるのだ。なんとなく感覚で言っているのではないか、と想像するが、理屈的説明としては理解出来ない。

断っておくが、原発には賛成でも反対でもない。ここでは、純粋に理屈的説明の材料としている。

人間は感覚的に人間を判断することもあれば、理屈的な場合もある。どちらかに偏ることもあるだろう。だから、一概にどうだ、とは言えない。つまり、上の例でもわからない場合もあると考えられる。

この、わからないことがわからない事態は、どのように回避出来るだろうか。恐らく、認識することが最大の期待努力だろう。では、どのように認識したら良いだろうか。わからないことをわかることだから難しい。

わかっていると思うことを疑うことだろうか。恐らく、そのような努力になるだろう。やはり難しい。