平穏外交

今朝の新聞の入試についての意見は、全面的に賛成する。特に、最後の部分は大いに同意する。何となく理想論を幕内弁当みたいに詰め込んだ議論より、歴史的課題を共有することは大事だ。

日本の対外発信力を高める動きに賛成する。日本の良さを厳密ではない感じで定義することから始まると良いと思う。世界から見た日本の良さとは、何だろうか。

独特の解釈をすると、いわゆるB級グルメに象徴されるような隅々まで浸透した「普通」という日常の感覚だと思う。いわゆるオタク的な趣味も、中身は知らなくても市民権を獲得していることに、それは表れていると考えている。和食に限定せず、食事へのこだわりも同様だろう。要するに価値観の範囲が良い意味で狭いのだ。

その独特の見方で日本を発信すると、国の指導層に対するというよりも、一般市民を対象にした発信ということになるだろう。他国の日常の一つに、いつの間にか受け入れられている風景が率直な予想だ。駄洒落が市民権を得るかは、わからない。しかし、そのような国籍不明で構わないと考える。

そのような文脈で考えると、軍事や経済を背景にした外交というより、日常を主役にした外交という、明確な担当者が不明確でも良いのではないだろうか。

中韓から見ると、日本の自衛隊は怖いのかもしれない。日本においては、どこか忘れている感覚だろう。その払拭の意味でも、日常を大事にする日本という感覚を前面にして、冷静に話し合えるように下準備をするような考えが良さそうに思う。

つまり、呑めないことは、それはそれとして呑めないとしても、日常感覚では平穏におつきあいするということだろう。

ベトナムの新興国への配慮は、その通りだと思う。新興国の立場では、国内の整備に時間がかかるのは当然だろう。明治政府を考えれば、頷ける。

もう一つわかりにくくしている事情は、極端な意見を国の代表意見のように認識するか、極論と等身大に理解するか、その違いがあるかもしれない。この点は注意したいが、注意の仕方として権利侵害の恐れに配慮の必要がある。

近い話として、テロ行為と同質云々の話がある。これは、その趣旨に限定するなら理解出来るが、同質という意味をそのまま適用するなら、フランシーヌの場合の歌も同質と捉えてしまうから、適用の拡大という事態という慎重さを感じるだろう。つまり、立場によっては怖いものなのだ。

話を戻そう。諸外国から見たら、北朝鮮の存在が際立っているかもしれないが、それを除外しても平穏であって欲しいと願っているだろう。その通りだと思う。つまり、中韓とは、それはそれで除外して、平穏におつきあいしたいものだ。だから、安全保障分野について、国として説明すべきだろう。出来れば、在日武官を対象に突っ込んだ説明をすると、不信感は和らぐのではないだろうか。

外交として、積極的に平穏外交すべきということではない。無意味な不信感に不注意になっている自覚が必要だろうということだ。当たり前でも、侵略は国民感情が許さないことが徹底して浸透していることを説明すべきだろう。言わなくても、相手に通じているというのは、日本人同士の感覚でしかない。

歴史認識や過去について、あえて触れる必要は感じない。しかし、不必要な不信感に鈍感ではまずいと思う。事務的伝達程度でも構わないから、一連の背景の説明を在日大使館にすべきと考える。法案が成立した分だけでも、だろう。むしろ、そのような感覚を在外大使館が伝えないのであれば、おかしな話だから、どこまでかは伝わっているだろう。

政策担当者に近いシンクタンクは重視する。考えそのものというより、実力だ。どれだけ評価出来るだろうか。実力とは、評価する力とかなり近い関係にあると考えている。因みに、米国のある有力者は中国のシンクタンクを評価しているらしい。

もう一つあった。国内の外国資本での開業について、その難しさは不信感につながる可能性がある。別の観点、つまり、経済的な意味で、障壁、規制緩和かもしれないが、をなくす必要があると考えているが、不信感からの要請もあるかもしれない。