直感と直観

言葉の意味は別にして、ここでは直観を直接認識することとし、直感を何らかの判断を論理的に導き出す方法と区別する判断の方法としよう。

点や円をそのまま認識することを指すと直観であり、幾何基礎論のように点や円を捉えることと区別する。つまり、何らかの判断を介在させないことを指すと考えられる。

何らかの判断が、論理的なのか感覚的なのか、その経路を区別する意味で直感が使われると考えられる。しかし、論理的と感覚的の区別を厳密に出来るだろうか。仮に、説明可能なものが論理的で、説明が容易でないものが感覚的としてみよう。なんとなく、説明可能な感覚的な判断というものがありそうだ。

例えば、生き物と判断する場合、論理的に説明可能だろうか。細胞で証拠とするとしよう。生きていない場合は、それでも生き物と判断するだろうか。仮に、生きていなくても生き物としてみよう。切り離された部位は全て生き物と判断して良いのだろうか。どうやら、際限なく生き物とすることに無理がありそうだ。

このように、論理的とされることでも、通用する範囲は限定されると理解することが良さそうだ。

映像の中の動く物体を生き物と感覚的に判断するとしよう。自らの力と意思によると説明されたとしたら、受け入れるだろうか。つまり、この場合、説明する内容も感覚的ではある。そのような感覚的な説明をどちらの扱いにするか、で区別することなのだろうか。どうやら、説明の可能性で感覚的論理的を区別することに無理があるようだ。

感覚的と論理的という言葉も、厳密な区別とせず許容するとしたら、程度の差で扱いが異なる事態は想定されるが、ここで追求することはしない。

長々と述べたが、直感と直観で何を主張したいかと言えば、対立概念と使用状況が暗黙の前提になることを主張している。上の長々とした話が例になるだろう。

直感と直観は、駄洒落ではないが読み方が同じで語感が似ている。そして、使用状況で誤解なく解釈されることも想像出来る。つまり、ひたすら区別する努力は報われないことが容易に理解出来るだろう。だから、区別を主張している訳ではない。単に、暗黙の前提を意識出来るようにしたいだけだ。

この対立概念と使用状況ということを掘り下げてみよう。何かの理念を想像してみると、その対立概念と使用状況が浮き出てくることが多いと気づくと思われる。

理念を主張に置き換えても同様な例に思い当たるかもしれない。それは、失敗の回避に代表される。

つまり、何らかの主張を容易に理解する方法は、その対立概念と使用状況を想像すれば良いと考えられる。理解せず、無理に解釈するなら、対立概念の対立に立脚すれば無理な解釈が可能かもしれない。それは悪用というものだろう。

直観を否定することは困難だが、直感を否定することは比較的容易ということも理解しやすい。直感を批判する価値はあるだろう。論理的な批判でなければ難しいこともわかりやすい。

直感に対して、直感で反論することをどのような目で眺めれば良いだろうか。よくある風景に思う。