公正と公平

今回も言葉の意味はとりあえず置いといて、ここでの定義をする。公正は、予め定めた手順で決めた遵守事項に従ったことと考える。公平は、結果的平等と考える。

この定義に従うと、公正では結果的平等は保証されないことになるが、その通りだと考える。また、結果的平等という概念は抽象的で、具体的に平等を説明すると、幻想であると考える。なぜなら、具体的な評価軸が各人で異なると考えるからだ。つまり、抽象的表現での使用は無制約だが、具体的事象の説明としては、個別評価軸に限定する制約が課せられるだろう。

ということならば、具体的事象を考えると、公平という言葉は適切ではなく、公正という言葉が適切と言えそうだ。ここでの定義の通り、何らかの遵守事項が暗黙に存在すると考えると、何か公正ではないと感じる状況は、その状況での遵守事項を無意識に前提としているからと想像出来る。

そのような状況を多数が感じると、排除の気運が自然と醸成される。恐らく、世の中の気運というものを説明していると思う。

つまり、その暗黙の遵守事項の生成過程が人工的なのか、或いは、自然的なのか、の違いで気運の制御という観念に対する遠慮の感覚があると思う。人工的生成の極論は思想統制だろう。自然的生成の極論はどのようなものと言えるか、わからない。恐らく、人工的生成という意味が払拭することは難しいと思う。何らかの影響を他人から受けていると考えるからだ。

その影響という意味で、先の生成を気運の制御を目的として行動することがある。例えば、言論が典型的だろう。何らかの影響を受けたとして、それを受け入れる自由と拒否する自由の両方を前提に、そのような行動は許されると考える。つまり、言論の自由とは、発する側だけの権利ではないことを意味している。そして、その場で受け入れを強要されることが侵害概念であることも同時に意味している。

さらに、忘れてならないのは、自分の判断で許諾するということだ。その判断のために必要な情報自体も委ねられていることも同時に忘れてならない。

これらのことは、歴史の産物であり、歴史を学ぶことで知識とすることが可能だが、その理由とか、必要の度合いの感覚とかは、各人の学び方で異なるだろう。

このように考えると、歴史を学ぶ必要性を十分に感じる。歴史を学ばずに、必要の感覚を養う方法もあるかもしれない。ただ、思い浮かばない。

具体的に考えてみよう。数人対一人で、正論が数人にあるとしよう。その正論で一人を論破する場面を想像して、どのような感覚を持つだろうか。正論なら一人で十分だろうとは考えず、正論ということだけで評価し数人側に参加することをどのように感じるだろうか。具体的ではあるが、抽象的でもある。つまり、この情報だけで判断することは困難だ。だが、この情報で新たに数人側に参加する者をずるいと感じる人がいると想像する。

ここで、その是非を問うものではない。目的は長々とした抽象的な話を具体的に考えることにある。つまり、暗黙の遵守事項とかを具体的に考えることが出来ることを狙ったことだ。狙いは外れたかもしれない。

自分で考えずに、多数に流されることとは、どのようなことと考えられるだろうか。上の話と類似していると感じるのは、おかしなことだろうか。