二大政党制

二大政党制を狙うらしい。それは、なんとなく支持されているようだが、どのような理由があるのだろうか。考えてみよう。

極端に、二大政党制と多数政党制を考えると、その支持層と政策で判断することになるだろうか。他の判断要素があるかもしれないが、とりあえず二点に絞ろう。

支持層は、二つ或いは政党毎の色合いが強いが、支持層の固定化という観点では、二大政党制の方が強そうに思える。長期的に政党が存続するなら、固定化は強まりそうだ。というより、色合いの違いに依存するような気がする。

政策は、二大政党制より多数政党制の方が独自色が生まれるように思える。二大政党制の場合、独自色と類似と政策毎に分かれるのだろうか。なんとなく、関心事では独自色を狙い、基幹的事項では長期固定化のように思える。ん~何を根拠に考えればよいのか、よくわからない。

日本においては、内閣は議会で選出されるから、二大政党制は政権を担う役割と考えてもよい。つまり、いつでも政権交代可能とする役割だ。

その役割は理解出来るから、首相に優先的な衆議院においては、二大政党制も理解出来る。しかし、参議院も含めて二大政党制とするなら、その理由を深く考える必要があるだろう。

二大政党制と多数政党制の違いを明確にすることは出来るのだろうか。それよりも、衆議院に限定して政権交代する場合に、対自民党において、一党と多数党の違いで考えるとわかりやすいように思う。

というよりも、なぜ民主党ではいけないのか、という見方が素直かもしれない。つまり、多数連立も民主党も、暗黙として否定されているようだ。だから、その理由を明確にすることは必要ではないだろうか。

政権を担う役割とする意味では、民主党も連立多数党も対抗として弱いということがあるからだろう。それは、主張する政策より政権を優先する厳しい状況をどのように意識しているか、が問われていると思う。

このことを政権として考えてみよう。主張する政策では、国民の支持を得られない場面では、あくまでも主張を通すか、やむを得ず変更するか、その選択を迫られる。このような場面の唯一解は存在しない。多くの場合、多少の修正になるが、どちらが正解かは、歴史の評価でしかないだろう。

支持者を向くのか、国民を向くのか、みたいな話なのだ。新聞の論説は、購読者か国民か、みたいな話と同じだと思う。

多数政党制の場合、支持者に向きやすいとも考えられるが、政権という意味では野党への配慮が必要ではないだろうか。

そのような文脈で、政権を担う役割を目指すなら、政策も大事だが、野党への配慮を意識することも大事だろう。教条的になるよりも、本来的に議会が機能することを打ち出すことが最優先事項ではないだろうか。

どの政党を利するかは、わからない。しかし、本来的に議会が機能するためには、上のような話として考える必要がありそうだ。

本分は何か、何に対して真摯であるべきか、そのようなことを追求し続けた先に求めるものがあるのではないだろうか。そのような追求を中途半端に、つまり、アリバイ工作的に求めると、支持も幻想になると想像する。

内容のない格好のよい見出しは、旗印として遠くからよく見える。しかし、近寄って内容を確かめて期待外れになると信用は落ちる。フリーライダー的存在を集めるのは、一時的効果でしかない。内容を充実化するのは地道な努力以外を思い浮かばない。

例えば、二十年後に効果がありそうな教育について関心があるとして、それを政策として掲げるか、と言えば、政治の立場からは、環境の整備の役割に徹するべきと考えている。この環境整備という発想は、わかりにくい。このわかりにくいことをわかりやすく説明することも求められていると思う。

もう一つは、論理的に理解する者と、感覚的に理解する者と、極端に分けたとして、意気込みという主張は感覚的信用かもしれない。しかし、意気込みだけを武器にするのは、市場開拓として合理的とは思えない。