自分で考える

何かの結論を得るときに、自分で考えることをどの程度必要と考えるだろうか。あまりにも一般的な問いになってしまった。

結論までの過程が自分の領分と認識するなら、自分で考えるだろう。

結論によって、自分への影響が大きいと思うなら、自分で考えることが多くなると思える。

類似の状況で失敗の経験があれば、失敗を回避しようとすることが期待出来る。

想像すると、それなりに自分で考えるような状況を思い浮かべることは出来そうだが、条件を絞り込むのは難しそうだ。

自分で考えない状況を想像してみよう。他人が考えることが慣例となっているなら、その慣例を崩すことは難しそうだ。

結論に自信がないと、どうだろうか。該当しそうだ。

判断までの過程の負担感が大きいと、どうだろうか。これも該当しそうだ。というよりも、この状況での他人任せは、よくないのではないだろうか。

自分で考えることを勧めようとした場合、この他人任せの状況に限るかもしれない。この場合、自分で考えることが出来ないという認識も考えられる。また、その立場にないという認識も考えられる。残る理由が他人任せなのかもしれない。

自分で考える能力や実力がないと認識している場合は、半ば強制的に考えるようにしなければ考えようとしないような気がする。それが好ましいことかはわからない。

自分が考える立場と認識してなければ、その立場にあると認識すればよいだけではある。自力以外の方法になると思う。

そもそも、考える習慣がないことも考えられる。これはこれで厄介だ。考えることでよい経験をすることで習慣になると期待出来る。基本は考える経験そのものだろう。

結論が容易に入手出来る環境も考えられる。最近の傾向かもしれない。もしかしたら、この環境が問題かもしれない。

対象はともかく、自分で考える習慣を身につけることは重要と考えているが、それはどのような場でも可能でもある。

社会的課題は考える対象になり得る。実現可能性から安易に否定するよりも、自分で考える習慣として暖かい目で見る環境も大事ということだ。

他人をこき下ろして相手より優位な状況を感じることは、多数から支持されているのだろうか。他人の拙い意見でも、暖かい目で聞く耳を持つ者はどうだろうか。

暖かい目と聞く耳は、自分で考える習慣のためのよい環境になると思う。勿論、ここの読者も暖かい目と聞く耳を持っているだろう。