複雑化対応

何かの対応を一般化して考えてみる。単純なのは、対応を判断する材料が一つということだろう。

では、複雑なこととはその判断要素が複数あるということだろうか。なんとなく納得してしまう。

世の中が複雑化しているとは、この判断要素が多くなることとみなしてよいだろうか。これも、なんとなく納得してしまう。このまま進めてみよう。

判断要素が少ない場合と多い場合を考えてみよう。比較すると少ない場合には再現性が高いと考えられる。

例えば、ある判断要素の起きる確率が8:2の割合と考えると要素一つでは八割の再現性と考えられる。そのような高い確率でも要素が多くなると再現性は低くなると計算する。

この推論によれば、再現性の高い状況での対応を複雑化して再現性の低い状況でも適応すると適切とは言えそうもない。

つまり、複雑化すると状況に再現性が少なく対応はその場限りになることが多くなると想定出来る。

では、再現がない前提で対応を考えることが望ましいのだろうか。それは飛躍だと思う。全くないとするよりも、共通する対応のような考え方が適切のようだ。

想定するのは、頻度の高い要素と対応だろう。つまり、共通を考えたときに対応の効果が高いことを狙うだろうから、経験を積み上げる意味があると言える。

例えば、毎回状況が異なると考えるよりも、共通する対応で生産性を上げると考えるようなものだろう。恐らく、そこに複雑化での積層化という生産性向上があると思う。

基盤技術の変化で役立たなくなる知識を考えてみよう。別の基盤技術への移行で全く役立たなくなると言い切れるだろうか。恐らく、一部に移行可能な知識があると思う。そのような発掘的な活用をどのような方法で運用出来るだろうか。多分、一括りに運用方法を明らかにすることは困難だろう。しかし、上の文脈で生産性向上は可能と考える。方法は難しいのに出来る、みたいな節操のない話だ。

要するに、知識とは単純な状況の積み上げで、複雑な状況に応用することでより高度化すると考えられる。それを応用力とするのか、知恵とするのか、その表現はわからない。ただ、知識を活かす経験は、活かす効果を高めるような気がする。

だからだろうか、単なる知識だけではなく、考えることも教育には重要だと考える。何か困難な状況で簡単に立ち往生するのではなく、打開することを経験するとより向上するような気がする。

産業が高度化すると考えるなら、教育について即戦力の見方より別の観点も必要だということなのだろうか。

もう一つあった。複雑化で例外状況が知識を役立たせなくなると、より根源的に要因分析すると打開する可能性が高いと思う。つまり、ある基盤の上の理論は、基盤を疑うことでさらなる強固な基盤の理論の発見につながると考える。