清貧生活

清貧生活は消費を抑止するので、単純には勧められない。しかし、視野を広くして評価すると、経済効果があると考えている。仕掛けを説明しよう。単純な話ではないから難しいと前置きする。

個人の生活をどのように過ごすかは、過ごす者の自由な判断と考えられている。しかし、どこまで自由な判断をしていると言えるだろうか。つまり、直接ではなくても、他人からの影響を受けていると考えるのが妥当という見方をしている。

他人への影響を作用としよう。自分を起点とするなら、その生活から価値観を変えるようなことを想定する。作用を目的としていなくても、作用効果は存在するだろう。

このときに、作用効果のある生活を考えてみよう。もちろん、その生活の内容は問わない。問うのは、作用効果そのものを何らかの評価とする考え方だろう。どのような評価なら、作用効果の大小を理解出来ると言えるだろうか。

流行のように広く作用するが、短期間で効果が消失することもあるだろうし、狭い範囲だが長期的に漸増することもあるだろう。ここで、範囲を人数とも、領域とも解釈出来そうだ。初回の観察で作用する場合もあれば、複数回で作用する場合もあるだろう。そのように評価を整理するならば、長期的に着実に作用することを評価すると仮定すると、俯瞰的に理解出来そうな気がする。

仮定をそのまま進めよう。具体的に整理してみよう。消費する対象に魅力があれば、その対象となる消費が増えると考えられ、その生活の過ごし方に魅力があれば、その過ごし方をすることが多くなると考えられるだろう。

消費対象に魅力を感じても、購買力が伴わなければ消費は成立しない。しかし、過ごし方に制約が少なければ、過ごし方の成立は容易かもしれない。

作用効果が明確になると、それに対する様々な周辺環境は成長すると考えられる。その環境を維持することに払われる経済的負担は、生態系として説明されるだろう。消費に限定されるとは限らない。

これが風が吹けば桶屋が儲かるみたいな清貧生活の経済効果の説明になる。芸術的な生活はその典型例だが、学術的文化的と広く解釈すべきと考える。

直接見聞き出来る者に魅力を感じることもあるだろうし、歴史から魅力を感じる者を見つけることもあるだろう。どれが望ましいことかはわからない。全て自分の頭で評価することだろう。

そして、強制的な教養は強要だろう。駄洒落だ。