短距離走

最近のニュースで気になるのは、新興国の金融で、中国もそうだが、ベトナムの不良債権処理に注目する。先延ばしの最たるものと思うが、その行方を見守っているどこかの国がいるような感じがしてしょうがない。人事交流からの憶測かもしれない。

今年のスポーツも大変賑やかで、色々な分野で活躍している。スポーツもそれなりに日本選手が活躍する分野とそれなりの分野があるが、歴史のように積み重ねる効果が高いものはあるのだろうか。

サッカーのように団体として動きを学習する必要がある競技は、なんとなく必要な気がする。武道も、なんとなくそんな感じだ。

なんとも感覚で納得する気になるのもどうかとは思うが、逆はどうだろうか。つまり、歴史が浅くても世界的に活躍することが出来ると考えられる競技は何だろうか。

必要とされる力を脳と肉体としてみよう。脳も個人的経験に基づくものと歴史的なものに分けるとしてみよう。分けられるとは限らない乱暴な話だ。

乱暴な話は続く。

努力効果を個人的な努力と歴史的な何かに分けられるとしてみよう。肉体と二つの脳はどのような割合と考えられるだろうか。というよりも、既に乱暴な分け方を済ませている。つまり、個人的経験に基づく脳と肉体が占める割合が高そうな競技が歴史が浅くても活躍出来そうだと乱暴に結論づけた。

乱暴だからかもしれないが、説得力を感じない。というよりも、それを象徴するような競技が短距離走と思えるが、どうもそんな気がしない。ずいぶんわがままな話だ。

これらの話の流れは破綻しているのだろう。しかし、では、なぜ説得力を感じないのだろうか。恐らく、世界記録保持者が集中する国と人種があるからだろう。

実は、人種での優位性を疑っている。なぜなら、努力の効果の差とそれ以外の差では、努力が優っていると考えているからだ。ただし、根拠は今後の収集に依存する。

つまり、仮説として短距離走の優秀な者への魅力を感じるという他人への影響が作用していると考えている。そして、年少での記録とその後の記録履歴で何がしかの根拠になると考えている。

例えば、年少での記録は注目されないのに、努力に応じて記録が伸びるとか、そんなものだ。恣意的になされる話ではないだろう。

短距離走でなくてもよさそうだが、この競技より注目される競技を知らない。

要するに、才能と努力とするときの才能というものを印象的にする競技ということで、短距離走と考えている。

効果的な練習方法を考案することも歴史的なものかもしれない。それはありそうだ。どの筋肉とか情報収集は団体競技かもしれない。それは、なんとなく説得力がありそうだ。ということは、選手以外の努力を期待することも応援になるかもしれない。