靖国神社

微妙なので、まず立場を明らかにする。

靖国神社について知っていること、というより認識していることを述べる。明治時代に維新の戦死者を弔う目的で建立して、その後戦死者と軍の死者を弔う目的になり、1978年の戦犯合祀から、中韓から問題視されている。維新の敗者側は知らない。いわゆる富田メモ昭和天皇が止めた理由も明らかとされた。

靖国神社には、近くで働いたときに砲台とか無料で行けるところは行った。花見の頃、飲んだか飲まないか忘れたが、賑やかだったのは覚えている。また、4月29日の当時のみどりの日には、右翼の一団を見た。先頭は堂々としていたが、最後の方はだらしなかった。つまり、公園のように考えている。参拝者は自由だと考えている。

その上で整理しよう。

参拝に関しては、参拝者、参拝者への見方、他国の見方、非難する国を見る他国の見方、のように複雑だと考えている。首相の参拝を喜ぶ理由を、単純に首相と靖国神社の視野で見る者もいるだろうし、非難する他国も視野に入れて見る者もいるだろう。

だから、どの視野で見るかで相当の違いだと考える。

首相というより、閣僚の参拝に対して、日本国内の見方は、直接の賛否より非難する他国に対する考え方に力点があるように思う。つまり、国内の大部分は米国と同じような視野で見ていると推測する。周辺ではない他国は事情をよく知らないが、それでも反応はあるし、認識
はそのよく知らない範囲でしかないだろう。つまり、大部分の国民もニュースの程度でしか理解しないから、欧米の反応と近似すると考える。

重要だと考えている点は、外務省または防衛省は米国の国務国防両長官の千鳥ヶ淵の分析を説明しているかどうかだ。意見具申ではない。分析結果だ。事情は理解しているはず、として説明してないとしたら、問題と考える。その理由は歴史にある。その説明の上での判断は、政治判断と考えるべきだろう。

色々と難しいのは、中韓がどの程度深い理解をしているかがわからないということにあると思う。つまり、深く理解して何らかの利用を目的としている可能性とか、過去の独裁者を神としていると誤解しているとか、邪推すれば際限がない。どこかと断定するだけの根拠がない。

だから、欧米から見れば、中韓が非難する行動をとるとしか認識出来ないのだ。同様に、国民の大部分もそのような認識だろう。

つまり、非難する気持ちは事実として提供しにくい感覚的なことであり、当事者以外はそれ以上理解を深める困難な状況にあるのだ。困難だから、非難する気持ちということが、事実として認識されてしまう。

言葉でどれだけ平和を唱えても、行動が違っていると認識されれば、やはり行動が平和と認識することは難しい。

誤解を真摯に解く努力を幻想と見るか、アリバイ工作と見るか、わからない。しかし、本気で平和の気持ちがあるならば、長期戦覚悟で説明し続けるしか方法はないだろう。誤解がどこにあるかを丁寧に説明しきれる自信が必要だろう。

ナショナリズムは難しい。というより、ただ乗りの事情が想定される。つまり、ある正義を守る側と非難する側という仮想的対立軸の正義側にいるということを根拠にするだけの「ただ乗り」意識があると考えられるのだ。だから難しい。そして過剰になりやすい。

そのような事情はどの国でも見られて、中韓でも同じ事情を抱える。本音では賛同出来なくても、異を唱える難しさがある。それは日本も同じなのだろう。直接知る範囲にいないので実感しにくいだけかもしれない。

極端で二つの見方をしてみよう。一つは靖国参拝を非難することで何らかの別の利用目的があるとする見方で、もう一つはヒトラーのような存在を崇める行為とする見方だ。現状断定出来ないが、頭の体操と考えてみよう。

何らかの別の利用目的とするなら、単純に誤解を解けばよい。

崇める行為ではないことも、単純に誤解を解けばよい。

さて、ここでは同じ結論を得たが、本来的にも誤解を解くことと結論づけられるだろうか。実効性を無視するなら、頷ける。

もう一つ別の見方は、野党幹事長の言う通り、外国の参拝を受ける施設として、考えることが本来的のような気がする。

恐らく、靖国神社への感覚が相当違うような気がする。具体的に誰を念頭に置いているのか、かもしれない。