境遇

人間の欲求を数段階で表現する説は有名だ。しかし、その説は信じていない。その時点その時点で認識する状況が異なることが基本で、変化すると考えているからだ。

例えば、固定的に人間の性質は変わらないと考えて、ある人間はある性質だからみたいな捉え方に対して、拒否反応のようなところがある。勿論、面前でその反応はしない。そのような反応は敬遠されるだろう。ただ、直接見た行動についての感想ならば理解出来る。

一方で、品格が高いとされる人間を認めない訳にもいかないだろう。認めることを前提に、その形成を考えてみよう。いつものように頭の体操だ。

最近の経営学の新聞コラムで、薫陶がかなり重要な意味をもつことが紹介されていた。品格についても、薫陶は大きいと仮定出来そうだ。

というより、この薫陶にかなり大きく肯定の考え方に影響されているから、そのような結論になることは明らかだ。頭の体操ではなく、薫陶に焦点を絞ろう。

例えば、ノーベル賞受賞者とかの話を聞くと誰か有名な人の影響だったり、何か象徴するような出来事をきっかけにしている印象が強い。そのようなことを含めて、薫陶を「強い影響」と称しよう。

目の前の作業に忙殺されている者にとっては、経営上の課題を意識することは難しいだろう。この状況を代表に、品格や欲求というものを抽象的にして、それを高めることを考えてみよう。

忙殺される状況が変化しなければ、きっかけは現れないと想定出来る。では、自主的にきっかけを生み出すこと以外に、経営上の課題を意識する方法はないのだろうか。この状況は、多数の人間を束ねて考えるとするのか、その一個人の立場で考えるとするのか、で見方が異なるだろう。

さて、話の行方が怪しくなってきた。

一個人の立場ならば、他者からの環境変化を待つより、自主的にきっかけを生み出す価値を感じることから始まるように思う。抽象的な向上心かもしれないし、作業以外の生活で向上の必要性を感じるかもしれない。それが「強い影響」だろう。

多数を束ねて考える立場ならば、「強い影響」への関与を意識する立場と考えられる。ん?直ちにその立場とすることでよいだろうか。少々疑問がありそうだ。とりあえず、進もう。

どちらの立場であれ、「強い影響」を意識することに必然性があるとすることは出来そうもない。何か、意識する理由のようなものがあるのだろう。

これはこれで何かあると仮定して、別の話に移ろう。

欲求とか品格とかから、その高さみたいなものを環境の変化で違いあると考えているとした。環境という言葉より、境遇という言葉の方がより限定されるから、境遇という言葉がしよう。

境遇の違いで高さが変わるとするなら、好ましい境遇とは何だろうか。恐らく、使用する言葉を変更することで、理解が進んだような気がする。ここでの境遇とは、その存在を肯定的に認めるか、その逆か、みたいなことではないだろうか。つまり、例えば、高い立場に昇進するとか、みたいなことだろう。

途中の話と合わせて整理しよう。要するに、境遇の違いで「強い影響」を意識することの可能性が異なると考えられる。

具体的に考えてみよう。

作業に忙殺されているが、作業に誇りを感じているとしてみよう。確かに、意識する可能性が高まるような気がする。

好ましい境遇は、「強い影響」によって好ましい変化が期待出来る。という結論が得られた。頷ける。

頷けるとしても、もう少し整理が必要だろう。