作法

宗教や儀式では、何らかの作法がある。大概は、その作法に従って行動するようだ。これはこれで、なんら何かを直接破壊することは考えにくい。

このようなことが受け入れられる理由は、何らかの気持ちを表現する手段になるとか、形式だけなら負担が軽いとか、様々考えられるだろう。周囲の多数が行うことに敢えて逆らう理由も見つからないからかもしれない。理由はともかく、実態を認めよう。

食事や交際での行為も、何らかの作法とされる。とりあえず、区別せずに作法としよう。箸の持ち方に劣等感を感じるのも、作法からはずれているからだろう。

他人に自分の考えを表現する手段として、作法は便利かもしれない。但し、解釈の一致が前提になるだろう。

挨拶も作法の一種と考えられる。年末年始の過ごし方は様々だが、挨拶はそれ程多様ではないようだ。相手に通じることでなければ意味がないから、当然かもしれない。

ただ、気持ちの強さを表現する手段として考えると、便利であるだけに形骸化を危惧する。つまり、本来ならば顕在化しない努力を敢えて主張する手段になる可能性のようなことだ。

歴史を振り返ると先祖たちの犠牲の上に成り立っているのが、現代及び未来の社会と考えた時に、どのような気持ちになるかは様々だろう。これを作法で表現する場合もあるだろう。それを批判するつもりは毛頭ないが、健全で向上することが先祖たちへの気持ちと考えて行動することは、それ以外の行動よりもよい社会を築く可能性が高まると思える。

気持ちの表現の仕方で食い違いを起こすよりも、共通なよい評価とされる行動で社会をよくすることの方が無難ではないだろうか。その努力が相手に認識されなくても、行動の目的が明確ならば、結局は通じると考えるのは、認識が甘いだろうか。

恐ろしい不平等を想像してみよう。ある作法を一度でも行う者は「こっち側」にされて、拒否する者は「あっち側」にされることを想像しよう。不明な者に対して、「どちら側」の者と考えるだろうか。つまり、白黒以外の灰色を暫定白と暫定黒の考え方があるだろう。そのどちらだろうか。性善説性悪説みたいなものかもしれない。

どちらであれ作法一つで身分を分けるような不平等を認める世界観だろう。存在するかは、わからない。単に想像するだけの話だ。しかし、作法の意味を知らない者が拒否すると考えたら、恐ろしいと感じないだろうか。

実は、明確な作法ではないが、受け答えで判断されていることを考えると、似たようなものかもしれない。その判断で大きく左右されるとしたら、やはり少し考えるだろう。

このような解釈の違いを恐ろしいと考えるから、なるべく同類と扱われたいと考えるかもしれない。この同類への安住の気持ちが、どこかあるような気がする。それがよいことなのか、よくないことなのか、断じることは難しいだろう。

その傾向をよくないとして、一体どのような努力が考えられるだろうか。傾向がよいかもしれない余地を認めるなら、とりあえず解釈するところで多様性への努力が正攻法のような気がする。局面での効率という犠牲があるかもしれない。そのような短期的はともかく、長期的には評価したい。