目利き

評価するとは、何だろうか。評価出来るとは、何だろうか。その観点で見ると失うかもしれない。

評価が適切な場合の恩恵と、不適切な場合の不幸を比較すれば、適切であることが望ましいだろう。つまり、適切な評価の為に必要なことを考えると、恩恵は多岐に渡ると期待出来るかもしれない。

適切な評価を定義してみよう。実は難しい。客観的に測定出来ることを評価とするなら、誰でも適切な評価が出来ることになり、適切な評価の為の努力の意味を失うかもしれない。

どこかおかしいのだろうか。恐らく、定義の段階でおかしなことになっているようだ。では、定義は困難としてみよう。

さらにおかしなことになりそうだ。ある評価が適切とされることも、同時に不適切とされることも起きることが想定されるからだ。つまり、定義の存在は必要だが、難しいということなのだろう。

こねくり回したが、自分の評価に自信がないから他人の評価に依存することを想定すると理解しやすい。何かの評価に後付けで主張する例を度々見かけるような気がするが、そこに理由があるのだろう。

逆に言えば、適切な評価をすると評価される者は、周囲から頼られると想像する。それが目利きなのだろう。

もしかしたら、目利きが必要とされているのかもしれない。

資金提供者だけでは起業が円滑に進展するとは思えない。やはり、それなりの目利きが必要だろう。これは、典型的な目利きだが、必要とされる目利きは様々だと思う。

必要とされるから、それに応える努力が増えると思う。頑張って欲しい。