雰囲気

当たり前のように「フンイキ」と読んでいるが、「フインキ」と読む人もいるらしい。漢字変換で気づくとは思うが、どうも通用しているようだ。

読み方で誤用が定着した例もあるから、この誤用も定着するかもしれない。

なんとなく、周囲が使っている言葉を雰囲気で使うことがあるような気がしてならない。特に、外来語とされる言葉に多いようだ。

面白いのは、数学の用語で比較的古い場合は日本語があるのに、新しいとそのまま使っている。技術的な世界では当たり前なのだが、数学のように古くても現代で通用するから比較が出来る。それ以外では、日本語で定着する専門用語の方が少なくて比較出来ないかもしれない。

つまり、用語の言語でわかるように英語圏が進んでいるからだろう。それはそれで実態だろうから、素直に認めよう。ただし、気になるのは、日本語が存在しているにもかかわらず使っていることだ。大概突っ込んでみると説明に往生していることが多くて、不信感を増すだけで終わる。

人間は経験したことが多いと真実と感じがちだと思うから、日本語が存在するのにわざわざ外来語を使うと不信感を持つかもしれない。気をつけなければならないだろう。

自分の日本語を英語にすると気づくことがあると思う。要するに、あいまいな使い方をしても許されてしまうのが日本語であることに気づくのだ。何かに気づくことは、きっとよいことなのだろう。

このように考えると、日本人は気持ちを大事にするような気がしてならない。それが象徴するのは、政治家だろう。支持を求めるのも、支持者の気持ちを配慮するような発言であるようだ。それがよいことかは、わからない。というより、懐疑的だ。ただし、説明するだけの解明には至らない。

仮説として、相手の気持ちをないがしろにすることに抵抗を感じるのが、日本人或いは日本語としてみると、なんとなく色々なことがその雰囲気を説明出来るような気がするのだ。何かの決定に対して、異を唱える敷居の高さは、ここにあるのかもしれない。

つまり、相手の気持ちをないがしろにするとは、現在の相手との良好な雰囲気を破壊すると理解出来る。雰囲気を破壊せずに前進出来る者が認められる社会なのかもしれない。

その仮説でいけば、限界もそこに求めることが出来るかもしれない。要するに、関係者の雰囲気を破壊せずに前進するという前提とするなら、破壊しない努力という負担が必要ということだ。その負担が前進を阻む要因なのだろう。

それを逆に理解すれば、雰囲気の破壊を恐怖感としない環境で効率がよくなるということかもしれない。それはかなり説得力がありそうだ。

例えば、先輩後輩関係なく純粋に問題解決に集中して効率がよいとか、個人を特定せずに意見集約するとか、なんとなく頷ける例を思い浮かぶ。

さらに仮説を進めると、規制も雰囲気の破壊から保護する役割になっているのではないか、と考えたりする。個別の規制緩和より、雰囲気破壊への価値観向上の方が効率がよいと考えるのは誘導の危険性がありそうだ。

家庭では雰囲気の保護は大事かもしれない。とすると、見えない規制に縛られることを大切にしなければならないようだ。規制内容は個別限定的なものだろうから、早めに気づくことが肝心だ。

今年の雰囲気はどうなるだろうか。