失望の解釈

幸福を科学的に研究する番組を見た。幸福を感じる人の共通点を紹介していたが、より根源的な理由は個人の存在を認められる実感だと思う。何を対象に実感するかは個人差があるが、ある程度共通点もあると考える。

さて、米国の失望の意味を独自に解釈してみよう。様々な見方の練習という程度に考える気軽な気持ちで構わないだろう。

歩行を定義することを考えると、どのような定義が考えられるだろうか。実は難しいことを説明する目的で持ち出した。様々あるが、どのような定義でも全てを網羅することが困難なのを先にしよう。

人間の動作を基準にすると、その動作が不可能な人間の歩行に無理が生じて、身体の位置関係では宇宙のような状況で無理が生じ、場所なら水面歩行に無理が生じる。つまり、何かを基準とする限りその基準で網羅することはほぼ絶望的だろう。むしろ、狭義解釈に打開を求める結果になるだろう。

歩行そのものの話は、単に何らかの意味には様々な解釈があることを象徴する意味でしかない。つまり、本人の目的と、他人の解釈が異なることは多いにありえることが大原則と考える。

例えば、ある目的地に向かって北に進んでいるとしよう。でも、目的地は東にあるとしたら、目的地に向かって歩いていると見なされるだろうか。このような解釈が理解出来るのだ。

そして、目的外の解釈が他人にされた場合、是正が難しいことも理解しやすい。言葉では東に向かうとしているのに、行動は北ではないか、という解釈が容易に成り立ってしまうのだ。

この難しさが一点ある。

個人の資質をどのようなことで判断しようとするだろうか。これは非常に難しい。ただし、ある程度傾向はあると考えている。それは、考える範囲の広さだ。地理的な意味に限らない。時間的、各層各界といった様々な観点があり、優先度も個人差があるだろう。つまり、逆に言えば狭い範囲しか考慮してなければ、資質に疑問をもたれやすいとも考えられる。

特に、影響の大きい立場の者には要求されることでもあるだろう。それが責任を感じていると信じる気持ちにつながる。

面白いというより、共通するかのように、個人の資質に触れるような発言であるようだ。裏で話し合いがあったかのように思えてくる。多分、そんなことはないから、それだけこなれた思考があると推測出来る。感心するところだろう。

表面上の話題にならなければよしとするなら、なおさら程度が知られることになるだろう。ただ運がよいだけなのか、困難を乗り越えられるのか、それを見定めていると考えると、本来誰がそんな品定めをすべきか考えてしまう。

努力していることを批判するつもりは毛頭ない。しかし、将来の困難に立ち向かう者の評価という意味では、別な話だろう。その評価のような評判を勝ち取った二人がいる。

こんな頭の体操をすると、党首会談に求められることも自ずと決まってくるように思う。細かい政策ではないのではないだろうか。政策は似た方が健全で、むしろ困難な重大事に対する取り組み姿勢のようなことにあるような気がする。

優等生的説明ほど虚しく響く。

もしかしたら、歴史からの反省は、この資質にあるのかもしれない。文化的背景のようなことに求めていたが、それだけではないのだろう。やはり、複雑なものだ。