議会演説

三島由紀夫はその昔大蔵省に勤めていた。前後してるかもしれないが、時の大臣は米国議会で演説して議員の感動をよんだらしい。豪州議員も居合わせていて後の日豪の外交に役立ったと、有名な同時翻訳者が体験を語っている。

演説の原稿は三島由紀夫の手によるものという推測は、流れから自然に出てくるが未確認だ。話としては面白い。

誰の手による原稿かは関係なく、感動をよぶことには考えさせられる。やはり、国は違っても人間の心に響くものは違わないと考えることは代表的だ。現在の政治家で、どれだけいると考えることもあるだろう。

商品が売れないから、機能を追加して売れるようにする発想では、感動から遠いと思う。売れる商品をとことん考えるから、その買ってくれる一人のためのような発想が感動をよぶのだろう。

面接で、優等生のような発言を並べれば合格すると考えるのと似ている。色々な面接があるが、知識を問うなら紙で十分だろう。目の前の行動に注目しているのだから、緊急事態を発生する方法もある。つまり、問われる資質の想定にすれ違いがあるかもしれないと考えることが重要だ。

確かに、今日も飲んでいる。だから、細かい話は出来ない。どこに飛んでいくか予想出来ないからだ。

面接での挽回は、問われる資質を主張する方法しかないだろう。研究の知らない状況で立ち往生して失敗したなら、立ち往生しないだけの機転に時間がかかるだけであることを明らかにするとか、そんな挽回策を考えればいいだろう。重要なのは問われる資質を間違えないことだろう。

色々な経験があると頻度のある状況より、稀な状況での対応を重視する傾向がある。なぜなら、数多い事例を学ぶ機会は多く対応可能な者も多いが、その逆は希少だからだ。その学習方法に教科書がない。

そのような流れを考えれば、必要とされることをとことん追求することが本来的に求められているのだろう。どのような分野であるかは問われずに、だ。

誰かは根性だと言う。かなり説得力があるが、間違った根性で成果をあげるとも思えない。自分の思考がとことん必要だと、今は思う。