関心度

政治を考える時に、関心の度合いを一様にみなしているように思う。経済学でいうところの合理的な人間みたいなものに似ている。

しかし、実際はかなり違う。対象とする領域も異なれば、度合いも異なるといったところだろう。これをどのように考えればよいだろうか。

一つは、関心を持つことがよいことだから、政治に関心を持つ方向での努力ということだろう。もう一つは、関心の度合いがばらけることがよいことだから、それに対応する方向での努力ということだ。

皆が関心を持つような努力は、それ自体ある意味で既存の考え方で効果は別にして既に実行されていると考えられる。多様な度合いの方向はどうだろうか。それは、予め間違いのないような仕組みということが一つあるだろう。それ以外はどうだろうか。すぐには思いつかない。

間違いのないような仕組みとして、三権分立とかの牽制機能や監視機能があると理解する。問題は、形式が存在するだけで実態として機能しているかが問われるのだろう。簡単なのは政権交代だろうか。

つまり、政策の中身は政党の違いに委ねるとしても、牽制や監視機能の実効性については認識を共有して努力する必要があるのではないだろうか。

なんというか、選挙で役に立ちそうな短期的に効果の上がりそうな政策には頑張るけど、長期的な政策や関心が低い政策、本来必要なのに痛みを伴う政策を泥をかぶって頑張るということを避けたがると思えてならない。

直接的な間違った政策を避ける工夫より、この本来求められる姿勢になることが必要な監視機能のように思う。

では、どうすればよいのだろうか。

この政治家に対して本来の姿勢を求める認識になることみたいな発想になってしまうが、それでよいのだろうか。まだ、なんとなくしっくりこない。

目の前の政治というより、歴史から問題意識を持つこともよいかもしれない。多分、この歴史からの問題意識が本来的なような気がする。

歴史の何に問題と感じるかは個人差があるだろう。だから本来的に思える。

本来的に感じる理由は、個人が自立して判断することにあるように思う。

そうだ。現在、新聞の連載解説の通り、他人の意見に影響されることより自立的判断が優先される状況は必要だろう。その判断の根拠こそ多様である必要があると思う。

そのような多様性は、株式評価とか人事評価とか、様々な場面で必要なのではないだろうか。他人と協調するという形式にとらわれて、本来求められている自分の考え方を避けているからだろうか。

どうなんだろう。この筋立ては理解しやすいだけに、安易に結論づけられない。

関心の度合いと協調姿勢というような観点で、再度考えた方がよさそうだ。