疎通の台無し

今朝の新聞コラムの日銀への注文は賛成だ。目の前の経済に関係なく備える必要があるだろう。この辺り、太平洋戦争と似ているところがあると思う。つまり、停戦の準備は戦争中に表立ってすることが難しいところが似ているのだ。負けるとかそんな意味ではない。始めてしまったことをとやかく言ってどうにかなるなら、すべきことではあるが、どうにかならないとしての話になるだろう。

疎通の話をしよう。

互いに相手の話が理解出来る状況とそれ以外の状況では、疎通への努力に価値が異なると思える。片方だけが理解出来る状況も、両方理解出来ない状況も不幸ではあるが、どうにか理解したいという欲求はあるだろうからだ。

どちらかが優位な立場にあると、事情は複雑になる。また、状況の打開の経験が豊富な者の存在が事態を左右する可能性が高そうだと推測する。さらに、対象の重要性も努力欲求を左右するかもしれない。このように、色々と考える要素はありそうだ。

一つの仮定として、円滑ではない疎通の打開での円満な関係の破壊と、打開しないことでの円満な関係の継続とを比較して、円満な関係の継続を選択しがちな傾向があるとしてみよう。これはよく見かける生返事が典型例になるだろう。

この仮定は、説得力がありそうだ。しかし、ここでは追求の意味はない。疎通打開の必要性と努力を考える材料にするだけの意味でしかない。

自ら台無しにすると罪悪とされがちという仮定はかなり強力に説得力を持つ。この仮定に絞って考えると、色々と恩恵が期待出来るかもしれない。

では、疎通を台無しにするとは、どのようなことと言えるだろうか。経験を語るなら、忘れられない事例がある。

作業内容の説明後、多少の疑問よりも作業を優先することを伝えて別れ、その後時間を置いての確認で、作業が未着手であること、何らかの関係の有無が不明で着手出来ないこと、が確認された。

この確認の時点で、不明の内容が理解出来ないから、再度作業内容の確認の最中に疑問が投ぜられ中断を余儀なくされた。当然、疑問の説明があると期待したが、無言に終始。

と、疎通の台無しの宣言と理解したが、この状況は未だに理解出来ない。関係者の誰からも説明がない。不思議な話としてしか理解出来ないでいる。

この事例は、疎通の問題ではないのかもしれない。つまり、認識する範囲が異なる状況を含めると、疎通の問題と括ることは難しそうだ。

社会が複雑になると、抱える状況が異なる関係者の疎通が多数行われることが想定される。疎通の確立ということを考えると、初対面で円滑にいくと考えることは危険だと思う。つまり、何らかの努力や経験が必要ということになるのだろう。

台無しとは、円満な関係を破壊する、円滑な疎通を破壊する、ということだけだろうか。新しい認識によって、何らかの問題の顕在化という事態も含まれるかもしれない。

個別の状況で考えるよりも、一般化した方が見えてくることもある。というよりも、そのような一般化して考える習慣が役に立つような気がする。個別状況を考えると、客観的に判断出来なかったり、認識する範囲が限定されてしまったり、と考えられるからだ。

biasということも考えられる。つまり、他との整合性で無理に納得するようなbiasがあるというようなことだ。ありがちなのは、あの人は普通じゃないから、ということで納得するようなことだ。どこに根拠があるのだろう。

逆に考えると、台無しにする方法は比較的容易なのだ。台無しにすることが、正の評価となるならば、という前提だろう。しかし、邪悪なものを感じてしまう。

円満な関係を維持したいなら、疎通打開を諦める方向性が適切の可能性が高そうだ。また、疎通打開を優先するなら、短期的には円満な関係の破壊の可能性を考慮すべきということだろう。相反する関係ではないことは、言えるだろうか。