動物の家族

妙なジンクスがある。不思議なことに、応援したいとテレビ観戦すると負けるのだ。昨日も負けてしまった。

動物にも家族を形成するものがいる。それらは独特に発展したように思える。どのような形であるかを問わず、人間の家族を考える上で役立つかもしれない。

同一の種類で同じような家族を形成するならば、その継承の仕組みがあると考えられる。少なくとも、自分を家族のどの位置づけであるかを認識しているものと思う。その認識する仕組みだけでも、同様のものが人間にも備わっていると推定出来る。

例えば、子供に対する母親と認識する仕組みは、子供を産んで授乳することで見当がつく。父親は、共通点を探す方が難しい。しかし、夫婦という関係からの子供に繋がると考えられる。推測しても、正確にはわからない。しかし、関係を認識することが出来ることから、何らかの仕組みと継承手段を追求する意味はあるだろう。

家族より大きい構成を考えることも出来る。そのような集団での生態は猿とかに見られる。その集団の中での自分の位置づけは、集団での共通認識にならなければ、意味をなさないと思う。ということは、やはり、集団での共通認識の仕組みを想像する。

魚類とかは、単に集団で移動するだけと思うから、集団での共通認識みたいなものがあると考えるのは不自然だろう。鳥類はありそうだ。つまり、鳥類と哺乳類に、家族なり集団の共通認識の仕組みと継承手段があるだろうという予想が成り立ちそうだ。

合理的な評価が存在するか、が一つの観点で必要に思う。なぜなら、形成の理由も、崩壊しない理由も、その評価が存在すると考えられるからだ。つまり、仕組みと継承手段の形成の解明には、何らかの評価も同時に発見されると予想する。

例えば、肉食動物と草食動物で、大括りに家族と集団の類似性があると仮定して、何らかの類似が確かめられたら、評価についても類似性があるように思う。

人間という動物としての見方よりも、経済社会の組織としては、それなりに組織学とかの発展が見られる。これはこれで発展を期待するが、動物としての隠れた仕組みがあるかもしれない。家族という単位はわかりやすいが、社会的には村落単位みたいな発想もあるだろう。

人間の場合の継承手段には、言語が考えられるから、全く関係のない人間が集団の仲間入りをすることは可能なのだろう。可能ということと不自然ではないということには、大きな差があるかもしれないが、評価という観点を含めると差が明確になるかもしれない。

このように考えると、社会的立場という共通認識は、一定の評価によって成り立つのだろう。その評価の仕組みというものが、社会的集団の形成に影響すると予想する。つまり、社会的最適解とは、社会的最適の評価の成立を必要とすると考えられる。現状では、客観的な評価には限界があり、その多くは各自の主観的判断ということなのだろう。追求することがよいことなのか、客観的ではないことが健全なのか、どうなのだろうか。

資源の最適解の追求という観点で、一応市場原理は支持されているとみなされている。しかし、社会的課題は、認識しているだけとは限らず、認識している課題での評価について定着の観があるとは思えない。難しい。

動物の場合、立場の認識範囲は狭い。人間の認識範囲はかなり広いとも、動物とさほど変わらない程度とも言えそうだ。

自己実現を追求することが社会的最適解の追求の近道と仮定すると、素直に頷けるのだが、落とし穴があると考えるくらいが丁度よさそうな気がする。