決まりごとの前提

決まりごとには前提がある。言葉だけで理解出来るだろうか。現在の決まりごとで否定することが困難で、しかし永遠の決まりごととすることも困難な事例で考えると理解しやすいと思う。

お墓に骨を埋めることを否定することは困難だろう。散骨とかあるようだが、多くは墓に入っている。このまま数億年の墓を考えると、カルシウムの不足とか、墓の土地不足とか、色々支障があり、維持することも困難だろう。つまり、そのような気が遠くなるような時間軸を無視する前提があると考えられる。

これは、あくまでも単なる例でしかない。考えたいのは、現在否定出来そうもない決まりごとも、何らかの前提が崩れると再考する必要になる可能性があることを言いたい。

決まりごとは、決める手順をふむ場合もあれば、習慣が定着したこともある。つまり、経緯を遡ると前提が明確になるのだろう。このことは、決まりごとの不都合な将来を回避する有力な方法ということと思う。

よくあることは、初期の混乱期とかで秩序を目的に決まりごとが導入されるようなことだと推測する。決まりごとの遵守はその秩序が保たれる一方で、何らかの制約とかによって不都合な事態になっているかもしれないのだ。

事態の認識は、一律ではない。認識が一致していても評価は様々だ。そして、評価が一致しても、対応は様々だ。そのような複雑な状況と、上の決まりごとの前提のような話は、さらに事態を複雑にする。

最良とか最適とか、単なる言葉だけなら存在するが、その意味する実態は存在すると考えるのは難しいだろう。様々な制約を課して成り立つ狭義の実態でしかないと思う。

決まりごとには前提という、成立条件を意味する制約が存在すると考える。同一の状況で、決まりごとの遵守が都合のよい評価とする立場と、不都合と評価する立場の違いは、多くの場合前提に対する認識の違いにあるように思う。

遵守する者が自分だけという決まりごとを想定してみよう。禁煙禁酒の類、練習や勉学のような努力のようなものと考えればよいだろう。つまり、決めた時点ではよい評価をしていると考えられるようなこととしてみよう。その遵守が不都合な状況とは、一概には決められないが、例えば、自分を律することに負担を感じるとするなら、不都合と考えられる。この状況に二つの立場がある。遵守することがよいと評価する立場と、その逆の立場だ。多分、どちらかだけが正しいとすることは困難だろう。これと同じではないだろうか。

物事をその個別状況だけで考えることがよい場合と、状況をより一般化して考えることがよい場合があると思う。一般化して考える習慣は、役に立つこともあると思う。必ずということもない。