考える習慣

やはり、考える習慣が大事だと思う。

何かの判断をする時に、状況から導き出すことが当然と考える場合と、結論という知識が存在すると考える場合があるとしたら、どうも後者が多いような気がする。多くの場合、誰かの導き出した結論である「知識」が周囲に存在している経験になるのだろう。そのような経験ばかりなら、幸運にも的確な結論が得られる。

しかし、このような状況ばかりではないだろう。未経験の状況で判断するか、「知識」を探すことになるのだろうか。

結論が的確でなくても、自分で考える習慣があると、そのような状況で、自分なりの判断をするから、その成功と失敗という経験から考えることに長けるようになると思うのだ。だから、やはり考える習慣が大事だという結論になる。

面白いことに、相手に対して先に結論を述べて、その後相手がその結論を失念して往生する事態を見ることがある。複数の当人の考えはわからないが、以前の結論の指摘に事態の進行を見ると、失念に対する考えを知りたい気持ちになる。恐らく追求は不幸な状況を生むだろう。

予想される状況は、必ずしも遭遇するとは限らない。しかし、様々な状況を想定すること、つまり、何かを考えることを習慣にしている者にとって、様々な状況を考えないことが信じらんない。

課題に対して、何らかの努力の形跡がないことも信じらんない。少しでも努力の形跡がないことをどのように理解すればよいだろうか。真実はわからないが、推測すると、上のような理解のようなものになる。つまり、「知識」がないから、自分たちで進められないと考えているのではないか、という理解だ。

自分で考えることがよいことと実感すれば、考えることに対して評価をするかもしれない。そんなことを考えてしまうが、それまでの様々な評価の仕組みに、自分で考えることを評価する仕組みが欠落していたからではないか、という仮定が浮かぶ。

評価の仕組みが客観的に限定しているなら、自分の導き出した結論よりも、誰かの的確な結論を覚えることが、自分たちの適切な努力と認識していると考えられるのだ。

では、自分で考えることを評価するとは、どのようなことだろうか。なんとなく、過去に書き込んでいるような気がする。いや、確実に書き込んだ。プチ哲学みたいなことを述べた記憶がある。

まあ、要するに同じような問題意識に触れて、同じような結論になったようなものだろう。

どうしたら良いのだろう。相手に合わせて、問題が生じないようにすればよいだろうか。問題意識を相手にぶつけることがよいだろうか。