着眼大局

着眼大局、着手小局を座右の銘にしている人は結構多い。着眼小局着手小局は多数という裏返しなのだろうか。着眼について考えてみたい。

目の前の状況を認識することを着眼とする。つまり、認識する対象が決まることが前提になる。この対象とは、直接認識するものに限るだろうか。限らない可能性を残そう。

認識するものが複数ならば、その関係の認識の考慮があるだろう。勿論、残した可能性のある直接認識しない対象の関係もあるだろう。では、とりあえず、直接及び暗黙に認識する対象とそれらの関係を状況認識として考える。

状況認識の小局、大局とは、認識範囲の広さとしてみよう。すると、着眼大局とは、状況認識の範囲が広いということになるのだろう。

これはこれで、当たり前のような結論に思える。語源となる囲碁において、着手する部分以外にも広く考慮する意味があるだろうから、当たり前と言えば言える。

では、着手を行動と置き換えてみよう。行動する部分以外にも、広く考慮することとなるだろうか。行動に直接関係しない要素が、考慮から洩れることを注意する意味と考えてみよう。

これはこれで、着眼の語感から意味は通じるが、行動に限定することと、直接関係しない要素に限定することに落とし穴があるかもしれない。別の解釈の可能性を残そう。

着眼の大局が小局より評価するような状況とは、どのような状況だろうか。恐らく、小局として判断するよりも大局として判断することが望ましいことなのだろう。それは、語源となる囲碁からも、容易に想像出来る。

では、一旦整理してみよう。直接関係しない要素も判断要素とすることが望ましいことがある、とする。これは、別の言葉があるような気がする。君子は豹変するという意味も似たように思える。これを似ているとする立場と、異なる立場の違いも面白いかもしれない。

異なる立場ならば、マクロ、ミクロということにこだわっていると想像する。マクロ、ミクロの方が的確な表現とするのも、支持が多いと想像出来るからだ。

興味の赴くままに色々考えることも面白いと思うが、とりあえず戻ろう。

直接関係しない要素を判断材料にする習慣が、着眼大局を獲得するのだろうか。これはこれで、説得力があるように思う。というよりも、判断という場面に限定しないで、関係する要素を拡張する習慣とした方が適切に思える。これはこれで、脳内概念の拡張みたいな話に関連すると考えられるので、かなり説得力がある。

恐らく、概念の拡張の習慣が着眼大局につながりそうだ。

もう一つの観点は、結果を急がないことかもしれない。急ぐから視野が狭くなる、ということも説得力がある。ただ、急ぐから評価することもあるから、少々厄介だ。

相手に通じない場面で、利用することは考えられる。相手に着眼大局ということだ。直接関係しない要素を関係するような説明が出来れば、着眼大局ということになるのだろうか。なんとなく、そんな感じがする。