怒りと憎しみ

憎しみは怒りの一種だろうか。違いとかを考えてみる。

怒りは緊張感のようなもので攻撃に適応するための気持ちの切り替えみたいなものと考えている。攻撃しないで逃避行動に適応する感情のようなものが恐怖だと思う。つまり、何らかの被害に対するという意味では、同根のようなものだろう。

憎しみは、素朴な感情というより、文化的背景があると推定出来る。つまり、何らかの怒りの対象に対して文化的理由が、ある程度周囲に理解されているとも考えられる。

この文化的背景が厄介だ。直接関係ない人間を仲間にしてしまう影響がありえるからだ。ということは、厄介な事態は、この文化的背景を考慮しないと事態の悪化は容易に生じるだろう。

客観的に一般論を述べれば、集団的憎しみは生産的ではない。だからとして、次の結論が導ける訳ではない。単純に生産的ではない一面を冷静に指摘しただけだ。

しかし、この非生産的な集団的意識を無難に解消出来るなら、かなり生産的という見方に簡単に誘惑されてしまいそうだ。

共通した解消法があるなら、既に実行されているだろう。恐らく、一律の策ではなく、個別対応になると思う。そして、悪化しない配慮は必需品なのだろう。

もう一つの見方は、感情を発する側が自ら放棄する自然な方法だろう。非生産的と実感するならば、成り立つ話のように思う。これは、特定の事態を意識せず、普遍的に支援出来るような気がする。多分、努力する姿としては、支持が多いと思う。

個別状況では、冷静になることは難しい。その困難に正面から取り組む努力を否定は出来ないが、より一般的対応としての非生産的への影響は、歓迎する話ではないだろうか。

以前、本分で返すような話を述べた。多分、そのようなことなのだろう。