善意

偽善には、立ち位置を暗黙に感じさせるものがあるという仮説を立てた。より一般的な意味の善意はどうだろうか。つまり、偽善は善意を前提に不快感を含むものとすれば、不快感を含まなければ善意となるのだろうか。

何か違う。不快感の有無というより、単純に不快感と善意という二つの要素に分けた場合、不快感を強調するのが偽善で、善意の要素だけに注目するのが善意ということのように思う。

だから、例えば義務感を含むと別の意味に感じるだろう。その意味、他の要素を含まない意味で、善意としよう。

とするなら、快不快は個別状況に応じると考えると素直に思う。多くの場合、快の感情として善意を全面的に肯定するという解釈は極端だということだろう。

では、善意という要素に、立ち位置という要素を加えると偽善になるのだろうか。その考え方も不自然だ。立ち位置という要素に快の感情もありえるだろう。

逆に善意には立ち位置という要素は皆無なのだろうか。多分、個別状況というよりも、その状況を観察する者の解釈に大きく影響されると考える。つまり、様々な要因があるから、一概に同じ状況で一律の決定は出来ないだろう。

善意は難しい。出し手と受け手に分けて、素直に出し手の解釈のままに受け手が解釈するとは限らない。大小は勿論、上のように逆も考えられるからだ。

時間の経過で解釈が異なることも考えられる。ガリレオの真実は、時代が解決したのかもしれない。ある判断の要素が不足した場合は、不幸かもしれないのだ。

ということから考えると、他人の善意を素直に受け取れない場合、判断材料の不足の可能性を考えることがよいことに思える。もしかしたら、相手が知っていて自分は知らない何かがあるのかもしれない。

不幸な事態は容易に生じる。他人の知識経験と自分の知識経験が同じであるはずがない。解釈の違いに、知識経験の違いの可能性を考慮することは、不幸な事態を回避出来るかもしれない。

感情が高ぶると解釈の範囲が狭まりやすい。そして、状況認識を断定しがちになりやすい。そこに、容易に不幸な事態が起きやすい。

これは、何かに似ている。バブル現象に似ていると思う。恐らく、何か共通する理由があると予想する。