情報共有

情報の詳細の程度の必要性の感覚は個人差がある。あいまいで済ませる人もいれば、詳細な情報を要求する人もいる。恐らく、関心度の違いにあるのだろう。

勿論、詳細の領域の違いもあるだろう。だから、何かの情報が関係者間で共有しているとしても、必ずしも共有感はない。情報不足を感じている場合もある。不足を意識出来るとは限らない。不足という状況である詳細を把握する者が、不足と判断してなければ、情報の伝達はないから、不足を意識する者はいない。

一斉の伝達で情報を受ける側は、情報の不足を指摘する機会を持つ。その機会は重要だ。その機会は、様々な状況を把握する機会でもある。指摘自体に様々な情報が含まれる。また、指摘に対する反応にも様々な情報が含まれる。それらを情報の積み重ねとしなければ、知識の積み上げは難しいだろう。

どの場面と特定せずに、大事にすることは何かに役立つだろう。要するに、関連する概念の充実は、さらに関連を拡張する働きがあるからだ。そのような働きを仮説として考えている。

ただし、指摘に対して義務があるとは限らない。この違いは不幸をもたらす可能性がある。難しい。

極端に考えよう。生死に関わる事態と家庭で安らいでいる状態では、全く異なるだろう。恐らく、大概はその間のどこかの程度なのだろう。しかも、程度の感覚の違いがあるということだ。

情報の不足は、知識や経験で補えることがある。というよりも、情報伝達には、ある程度制約があるから、一定の知識や経験を必要とすることが多いと考えられる。

この知識は教育で補える。やはり、教育は重要なのだろう。