悲しみの共有

指揮者の小沢征爾の父親は、特高に目をつけられていたらしい。でも、亡くなってその特高の課長から国を本当に愛していたという手紙を受け取ったようだ。昨日の分の掲載にある。

国を愛するということは、一体どのようなことだろう。抽象的な意味で構わないと思うのは、なぜか外れた解釈になりそうで、どこか形式を求めているように感じる。

この際、少々断定的な言葉を使おう。疑う余地は十分にあるが、文章が煩雑になることを避ける意図でしかない。

愛国心は、気持ちの問題だから、表面化する必要は本来はないはずだ。ところが、その他人の気持ちを確認したいらしい要求に応える目的で、何らかの外見で認識可能な形式を求めることになる。それ以外の簡易な方法が考案されないからかもしれないし、単に慣習とされているからかもしれない。

数日前に、憎しみに関する書き込みをした。この憎しみも、他人から確認出来る手段みたいなものを求めているような気がしてしょうがない。しかし、他人の存在という観点で整理し直すと、何らかの攻撃対象を暗示する憎しみとするよりも、周囲の他人は不幸な境遇を認めることで尊重を表現する方が望ましいのではないだろうか。

今回も、しっかりした整理がされていないから、ずれてしまうかもしれない。率直な意味では、気持ちの問題と他人が気持ちを確認する手段ということ、生産性という観点、といったものをひとまとまりで考えたい。それが、上手に整理してはいない。少し続けよう。

愛国心も、憎しみも、気持ちの問題ではあるが、他人が確認する、或いは、他人から確認されたい、といった他人からの確認といった一種の要求があると思う。

そうか、確認という行為が生産的ではないということだ。個人の気持ちに留め置くだけでよいと考えられないか、という問いがあるだろう。愛国心は、確認の価値を認めて初めて確認の生産性が認められるだろう。憎しみはどうだろうか。暗示される攻撃が正当化されるならば、という制約条件が想定されると思う。

正当化されないから、憎しみではなく、不幸な境遇を慰めることで、気持ちの生産的な方向に向かう結果になるのではないだろうか。

慎重に言えば、個人の感情は、個人の自由であるから、本来はその感情を制御する行為は慎まなければならない。その上で、本人に必要なことを周囲が考える状況を想定すると、周囲からの影響という観点があるだろうということだ。その影響の方向性として、極端に考えると、憎しみを助長する方向性と、不幸な境遇を慰める方向性があると考えられ、どちらが生産的か、という評価軸で考えられないか、みたいな話が慎重な物言いである。

この辺りの話は、整理してから再度触れよう。ただ、小沢征爾の親父さんは、どのような主張をしていたのか、興味深い。