枠組みの強制

以前の経緯を知らないとか、選択の自由がないまま、参加を強制されることはありえる。そのような状況を枠組みの強制としよう。

公的年金と未成年者の関係は、その典型例だろう。ゲームの途中から参加するのも同様だろう。

このような枠組みの強制は、後から参加することが有利であるなら問題を感じないだろうが、必ずしも有利とは限らない。不利な場合、問題を感じる可能性が高い。特に、参加前の選択に関与の可能性を認識すると感じると思われる。

仕事を想定してみよう。様々な選択の可能性があるにもかかわらず、適切な選択ではない選択が他人によって既になされている時に、参加の強制をどのように感じるだろうか。状況を知らされていなければ、詳細を把握した時点で騙された感を持つだろう。

情報の価値や選択の可能性について、知識や経験の違いで異なるというのは、以前の書き込みで既に触れた。

枠組みの強制での騙された感は不幸だ。事態を的確に把握出来る者がいれば、まだ救われるかもしれない。

単独で参加する事態は、このような不幸な状況を想定するとよいと思う。特に、能力の高い者ほど他人から状況を理解されることは少ないのだ。

このような不幸な事態を組織に抑制することは必要だろう。個別状況の観点と不幸な事態の観点は異なる。つまり、個別状況の判断とは別に何らかの判断が必要ということだ。抑制ではなく支援かもしれない。

人事評価は難しいが、自分の仕事を理解されない状況という不幸な事態も、その人事評価の難しさに通じると思う。だから、組織として検討すべきなのだ。

典型例とした公的年金は、どうだろう。これはこれで考える必要があると思う。

様々な観点が挙げられるが、せっかくの知識や経験を役立たせることが出来ないという観点、評価されない状況に強制された騙された感という不幸の観点は、この枠組みの強制においては考える必要があるだろう。