自動車教習所

自動車の免許を取得する時に学ぶ所ではあるが、色々と考えさせられる。

問題視している訳ではない。成果と投入資金との兼ね合いで、今の姿になったのだろうが、ほぼ試験が合格出来ることに特化していると思う。

確かに試験目的以外の実際の目的で学ぶこともあるだろう。しかし、大部分は試験目的だろう。

これから考えることには、成果ということと、実際の目的の観点だ。実際の目的とは、事故を防ぐだけではなく、道路の効率的な運用に供する視点で必要な知識や経験を修得することだろう。だから、教習所だけの話ではない。また、その修得の機会は教習所に限る話でもない。

成果については考えさせられる。つまり、試験さえ通れば、最小限の教習で済ませたいという要求は否定出来ない。その要求に応えた姿と理解出来る。しかし、この観点を一般化するような話があるように感じるのだ。

入学試験に出題されなければ、学習の対象外とするような話だ。入社に関しても似ているだろう。さらに言えば、人事評価の対象外になるなら、みたいな話も似ていると思う。

これは一般化して、評価軸に対する努力と考えられる。評価軸以外の評価をどのように考えるか、ということではあるが、そのような広い解釈では焦点がぼやけるだろう。

教習所のように身近な存在が当然のようになれば、認識の共有は容易だろう。まして、一学年が一斉に行うようなことは、共有認識と言えるのではないだろうか。

長年の共有認識が定着すれば、より強固な共有認識になるのではないだろうか。どこかで絶つ必要があるかのだろうか。絶たないと強化する一方なのだろうか。わからない。

複雑な社会になっていくことは素直に肯定出来る。その複雑な社会で期待する成果をあげるために、最小限の努力に向かうのは自然なのだろう。ただし、その自然な姿が最適と言えるか、という観点で考えると、素直に頷くことは出来ない。

ここでは、市場の失敗があるのではないだろうか。市場原理を認めるならば、市場の失敗を抑制することを考えるべきだろう。さて、市場の失敗だろうか。そのような気がしている。