技術者

技術者は大概、努力する範囲が定まっている。つまり、必要とされる知識や経験は限られている。多分、要求される成果が定義されているからだろう。

昨日の書き込みと似たような話になりそうだ。要するに、評価に従った努力に向かうのは、人間なら当然のなのかもしれない。

だからかもしれないが、仕事の範囲を限っているように思える。範囲を限定しているから、その先に進まないような気がしてしょうがない。なんとなく、もったいない。

限定した成果を求めることを局地最適としよう。より広範囲な成果を求めることを全体最適としよう。この時に、全体最適がよいと言い切れるだろうか。多分、言い切れるだけの根拠はないだろう。

多くの場合、全体最適を錦の御旗にする。その経験が多いと部分最適より全体最適が望ましいと刷り込まれやすい。例外というより、頻度が少ないだけのことではないだろうか。頻度が少ないこととは、少数意見のようなものだろう。切り捨てて残った大部分を対象にするようなことと考えると理解しやすい。

一度戻ろう。

技術者は要求されることが明確なことが多い。多いことで人間は判断しやすい。この時点で止めてみよう。

技術者は、明確ではない要求の可能性を考慮する必要があるのではないだろうか。暗黙に要求されているかもしれない。要求する側が明確に意識出来ていないかもしれない。個々の人間の立場からみれば、努力を強制するものではないが、多くの人間を見渡す立場からみれば、全否定こそ否定すべきだろう。

このような見方は、技術者に限定しないように思う。要請は、どの場でも暗黙の要請があるのだろう。この場合、要請は期待かもしれない。

人間は頑張っている姿を認めやすい。否定しにくい。だから、何か頑張っていると認められやすい。その経験は、判断を狭めやすい。

人間の判断の根拠の乏しさを実感することは、必要かもしれない。理解ではない。求めるのは、実感することだ。