標準化

国際標準は色々ある。意義を認めるから、多くが関心を払う。よいことばかりだろうか。また、指導的な役割はよいことだろうか。

一概に断じることは出来ない。しかし、参加者全員が同じ程度に努力するとは限らない点で疑念がある。つまり、標準の遵守を前提に安易に利用すると痛い目に遭うのは、ブランドと似ている。多分、手続きを透明化したブランドと言えばしっくりくるだろう。

指導的な役割は、非常に意味のある領域が沢山ある。その方面では頑張って欲しい。特に、多岐に関連する分野は、波及効果が高いから支援こそ大切だ。念頭には、ある技術があるが、特定はやめよう。

国際標準については、先進国の間での活用ばかり目立っているが、技術の導入時、保守運用時、改善時、と様々な局面で効率的と思われるから、途上国とかでは独自技術を避けて、極力国際標準になるようにしたい。橋や道路、鉄道、港湾、そのようなインフラ整備にこそ必要と思う。インフラは、その国で保守出来ることが望ましい。保守だけでなく、標準化されていれば、教育も標準化されやすく、多方面の技術向上が見込めるだろう。その意味で国際標準は本来の価値を発揮すると思う。

金融こそ、経済その他の基盤になるから、先行するなら、金融関係だろう。中央銀行の政策そのものに標準はない。しかし、それほどの乖離があるとも思えない。ある程度の幅を認めても、実運用組織の構成員になって、本国に貢献する道は想定出来るだろう。

標準化は、ある時点の状況で固定されず、時代と共に進化することも必要だろう。その進化の仕組みは、共通点があるような気がする。手法は共有してもよいのではないだろうか。

例えば、和食の標準化などは、反対する人が多いと予想するが、何を標準化するか次第で、標準化の姿も変わるだろう。材料や料理法を詳細に決めることが標準化と解釈することが多いと予想するからだ。しかし、材料や料理法ではなく、何か、例えば、身近で入手しやすい材料で工夫することのようなものを標準化の対象にすれば、標準化の姿も変わるだろう。

新しい国際標準に期待しよう。