一意解釈

仕事上、情報は的確に受け渡しする必要がある。従って、不明点は問い合わせすることになる。口頭でのやりとりで円滑にいかない場合があり、どのような理由があるかを考えている。

大体の場合、相手は局地的に認識していて、それに対して広域の認識から情報を把握しようとすると、どの局地であるかを先ず知りたいのに、それすら伝達してもらえないという事態を迎える。そして、そのような相手とは、不幸になる。

タバコ屋の先が工事中だから、店の門を曲がって、と言われたとしよう。先ず思うのは、どのようなことだろうか。個人差があるだろうが、その情報の目的と背景が共有されてなければ、わからないと思うのだが、どうだろうか。その時に相手に直接、その話の目的と背景を説明して欲しいと話して、滞りなく説明に入ってもらえることが多いので、不幸な事態を大概は回避出来る。

ところが、通じない相手がいて、工事中の説明とか、曲がる意味の話になって、どうしたら通じるか、困ることになる。そのような相手は、新人とか、経験とかが不十分であることが共通点なので、局地以外の認識が出来ないという、いわば一意解釈という状態と考えている。

打開する方法を見つけたいのだが、一意解釈以外の解釈を認識しないと難しいように思う。以前の経験で、二択の回答を迫る相手がいて、当然二択の認識が共有出来ている暗黙の前提を強制されている節があった。二択の解釈が不明の旨を伝えても、どうも前提を強固に守るだけの平行線を変えることが出来ない経験を度々持つと、一意解釈の人間との疎通が難しいと感じている。

そのような経験から、仕事で接する人間を、その観点で早めに察知するようにしている。

もう一つの種類があった。状況は不明だが、他の選択肢の余地を与えない相手もいる。恐らく、切迫する理由を抱えているのだろう。詐欺師の類は、これに該当するが、思わしくない仕事の場合に横行する。これはこれで、別の意味で困りものだが、立場がその該当者になりうることも否定出来ないので、不承不承という感覚を持ってしまう。

さて、実は今回新人君がいて、不幸な事態になるのが濃厚と予想している。極力接する機会を回避するような逃避策を選択するだろう。

本来的に適切と考えるのは、一意解釈の認識を適切に意識してもらうことだろう。さて、その役割は誰の担うことだろうか。

このようなことを考えてみると、本来あるべき姿にする努力より、人間の感情を刺激する真似と評価しがちと考えるのだ。よくいう、本当は…みたいな話には、人間関係を壊す事態が暗黙に含まれると思われる。

つまり、経験的に、感情を激する場合は物事が円滑にいかない、とみなされているのだろう。円滑にいかないことと、本来あるべき姿に向かう努力では、前者は感覚としてかなり高い確率で認識出来るのに対して、後者は論理的に自分で判断する必要を迫られる面が否めないという比較になると考える。まるめると、成功確率の高い方を選択しがちなのだろう。

そこまで考えると、もしかしたら日本人特有なのかもしれないと考えてしまう。合意の積み重ねという官僚の意識と、合理的政治判断という対立軸を擬すことも容易かもしれない。

かなり極論になったが、人間の自然な意識を他人がとやかくいうことは、過激な表現をすれば、尊重への冒涜なのかもしれない。つまり、自己存在への否定の一種として、防御本能のようなものが働くと思うのだ。理詰めで説明出来る相手なら理詰めで可能だろう。その可能性が低い相手に対して、円滑な方法を見つけたいと思う。

恐らく、防御本能を発動させずに冷静に説明出来ることなのだろう。そして、多分発動の回避が鍵と考えている。難しい。