政策の幻想

新聞とかの論調では、政策合意がないと野合と批判されているようだ。数あわせを批判する話の流れによるものと考えられる。

この政策合意を過剰に意識する必要はないのではないだろうか。単に数あわせの批判が理由ならば、互いの政策を尊重して連携なり合流なりすることを無闇に批判することは不要ではないだろうか。

その話の前提として、政策というものをどのように認識するだろうか。ある時点での政策と、多少時間経過した時点の政策が同じと考える立場と異なる立場があると考えられないだろうか。

政策合意を過剰に意識するとは、時間経過に関係なく恒久的に政策は存在するという前提があるからと思われる。つまり、政策を静的に捉えているのだ。

ところが、実際の世の中は状況が動的に変化する。優先順位も政策の中身すら変化すると考えられる。この認識からすると、政策合意とは、ある瞬間を切り出した状況認識を前提にしていると考える。

世の中の通念が静的ならば、ある意味仕方のないことだろう。だが、実際は数ヶ月で変化する。つまり、政策の貫徹は難しいことが実際のところなのだろう。これを政策の幻想のように感じる。

逆に数年以上の長期での取り組みを待ち望むこともある。つまり、政策の貫徹こそ求める姿とする考えだ。それも一理ある。ただし、それ以外の領域に関して切り離して考える必要があるだろう。

もっと言えば、個人一人ひとりの考えが異なる前提とするなら、政治家の色合いが狭い範囲に特化するよりも、守備範囲が広い方がよいのではないだろうか。静的政策を掲げるよりも、考え方の筋道を明らかにすることが望ましいのではないだろうか。ただし、この主張は今回の範囲を超えている。別の機会に改めて述べる。

一度戻ろう。

政策の領域が幾つかあるとしよう。その幾つかで政策が合意するとは、どのようなことなのだろう。一般論として括ることは出来ない。ある領域では一致、別の領域ではあちらの政策、さらに別の領域ではこちらの政策、みたいなことを想像するが、これを野合と批判されない為に行っているとしたら、ということを今回は話題にした。

静的状況認識ならば政策合意は成り立つかもしれないが、本来は動的に認識すべきではないだろうか、という疑問があり、政策の幻想として合意を懐疑的に考えている。

動的ならば、もっと荒っぽく合意して構わないとする立場を述べたのが、今回の話になる。回りくどくて、非常にわかりにくい。整理したつもりだが、洗練されているとは到底言えない。わかりにくい。

政治家の話は、元々抽象的でどのような解釈でも可能になるようにしているように感じている。それが正直なところ。それなら、合流なり連携するなら、正直ベースで簡潔に抽象的表現で構わないのではないか、ということが率直な話だ。これなら、わかりやすいだろう。

数あわせではないことを示せば要件は満たされるだろう。わざわざ敷居を高くして、合意内容を明らかにするのは、縛りでしかない。もっと動的な認識の立場を主張すべきだろう。

今朝の新聞に世論調査の結果みたいなものが載っていた。関心の高い領域は想像通り。そして難しい。この対応は縛りからの解放が必要だろう。その必要性こそ主張すべきことと考える。