部分最適

政策を色合いの濃淡で分けて考える。ここでいう濃淡とは、限られた支持層を対象に突出した政策と、広い支持層を対象に無難な政策と分ける見方をさす。

このことだけを取り上げると、濃い政策は部分最適で、淡い政策は全体最適のように見える。

多数決の原理をそのまま適用すると、少数の犠牲で成り立つ政策が危惧される。このことが、多数の一人当たりでは僅かな利点と少数の一人当たりでの多大な犠牲という構図を回避する力となっているようだ。

では、濃い政策とは少数の犠牲を回避する政策と言えるだろうか。

恐らく、濃い政策を強制的に分類すると、少数の犠牲回避政策と、少数の利益政策、結果的多数の利益政策に分けられるだろう。そして、少数の犠牲回避政策に対しての反論は少ないだろう。だから、問題は少数利益政策になるだろう。結果的多数利益政策は、ありえるだろうか。ありえるなら、結果的に問題はないが、結果を得ていない過程の上では少数利益政策と認識されると思われる。

では、少数利益政策に政策上対抗するのは、多数利益政策だろうか。少数利益政策が多数の犠牲で成り立つなら、つまり、合計を0とみなすなら、少数利益政策は多数犠牲政策となるから、多数の犠牲を回避する政策が対抗する政策になるのではないだろうか。

ここまで来て整理してから書き込めばよかったと反省する。このような論理を組み立てるような話は事前に筋立てをしっかりさせておくものだ。要するに、行き当たりばったりでは、ぐだぐだになるということだ。

そのぐだぐだを認めてしまうと、先に進む勇気はない。なんとなく、少数の政策と多数の政策を包含する政策のようなことを考えていたが、どうも無理なように思える。この辺りはゲーム理論の出番なのだろう。

ただ、犠牲と認識されると回避は支持されやすいとは思う。互いの利益の引っ張り合いとするなら、足して割る政策になりやすいとも思う。

難しいのは、利益と損失の認識が異なる状況だろう。例えば、原発に関して、利益や損失とされる立場の認識が一致していると言えるだろうか。一致した認識ならば、利益と損失のゲーム理論に従う原理を基本に考えることが出来るが、とても認識が一致するとは思えない。

単純化すると危険でもあるが、見方の新鮮さで考えを深めることも可能だから、色々な見方を試みたいものだ。