原子力

原子力と言えば、核分裂核融合による熱エネルギーを利用した発電と考える。勿論、震災の事故で大きく評価が変わったことを踏まえて考えてみる。

多数の不安は、よくわからないことからくる不安によるものだと思っている。どの程度の数値なら大丈夫で、どの程度なら危険なのか、といった確たる数値がないことへの不安と言えるかもしれない。この認識が全く違うとは思えない。なので、まずこの多数の不安を対象に考える。

数値は、場所と飲食物としてみる。場所ならば、一応目安の数値は確定していると認識する。そして、その数値よりも飛行機で浴びる数値が大きいことへの不安を聞かないことを不思議に思う。飲食物はちょっと難しい。ただし、政府の示す数値は目安になると思う。これも浸透しているように思える。ということは、数値が示されていない状態での不安に絞られるのだろうか。

多分、というのは推測しているから使っているが、再び起きるかもしれない事故に対しての不安と考えられないだろうか。事故が起きないとは言えない。起きるとも言えないが、起きる可能性がある前提で考える必要はあるだろう。

その上で、起きることへの対応が明確ならば、何を不安とするのだろうか。対応への疑いとしての不安は成り立つ。懐疑的見方は必要と考える。それだけではないだろう。不安とは、論理的に説明する話ではないからだ。その意味で人間ならば、仕方のないことではある。

というより、原子力を実感出来ないことが最大の不安要因ではないだろうか。そのように捉えると素直に納得する。

立場を明らかにした方がよさそうだ。原子力だけみるなら、以前にも触れたが、最終処分への対応は必要と考える。その処分費用を含めて安価とは言い難いという疑念を持つが、核力への作用の解明が進むと安価の可能性があることを期待している。また、エネルギーの供給源としては、多様性が基本的戦略と認識する。近未来的有望な供給源は核融合ではないだろうか。という意味で明確な賛成派でも反対派でもない。中立でもないと思う。なにしろ、停止中と発電中の原発の危険性は、ほぼ等しいと考えているからだ。その意味で、停止の評価をかなり低く考えている。

立場を明らかにしたところで、何かが変わる訳ではないが、漠然とした不安は、知識で補完する方法と、制御への信頼というものになるのではないか、と考える。どちらに与するかはわからないが、知識補完を目的に説明を丁寧にすることと、制御の信頼性向上に努めることを期待することになるだろう。期待するのは、多数の人間だと思っている。

これが不安を持つ多数への認識で、多数以外が厄介だと思う。そこに踏み入る勇気はない。というより、整理が難しい。どのような立場があるのか、立場とは重大関心事項、利益損失、属する組織、立地周辺のように色々あり過ぎる。

この様々な認識があること、それが損益として単純化出来ない事情だと考えている。不利益を相手に与えると認識しても、その受け取る側が利益と認識する、どちらも利益を享受する構図なら恣意的にならず自然に成立するだろう。自然に成立しないのは、妥協出来ない状況が想定出来ると考えられる。

今回は、評価への多様な認識という状況が難しくしていることを話題としたい意図があった。でも、原子力という話題と捉える人が多いと思う。まあ、確かに多数の話が多いから、わかる。

ただ、都知事選挙での意味は、色々と思惑があると邪推している。この邪推を聞きたいのだろうか。