知識の蓄積

今朝の日経の経済教室で、景気循環の話題を解説していた。ほとんど賛成。特に、今までは企業が教育を担ってきたが非正規雇用が多くなった現在では社会全体が担うとする考えには大賛成だ。

少し今朝の解説とずれるが、複雑化する社会ではせっかくの知識の蓄積の価値を失うような変化が当然とされると想定出来る。また、非正規に限らず雇用の流動性も高くなることも同様だ。企業からすれば、教育を担う誘因が働かないことも同然だろう。

将来の成長分野、もっと限定して有効な学習領域を予想することを考えると、社会全体で単一な選択をするリスクは馬鹿げている。やはり、多様な選択によってリスク分散して、確実な選択を社会全体で充実していくことになるだろう。だから、具体的な方法を明確にすることが求められていると思う。

ここに、選択の内容と選択の手段という微妙に似ていることが話題になっている。内容も手段も確実とされていない。どちらも試行が必要なのだろうが、手段は定着が予想される。内容は変化していくと予想する。

だから、教育機関や企業といった既存の組織に限定せずに、色々と模索すればよいのではないだろうか。個人が知識を披露して、その知識を学習する機会が安価で容易ならば、利用は広がるといったこともありだろう。

何か大仰な構えをしないといけないみたいな観念を払拭して考えることが前に進む原動力のように思える。敷居を低くすることがその意味だ。何か実行したら成果があった、みたいな程度で、やったことを閲覧可能にするだけで、他人の知識の蓄積に貢献すると考えればよいと思う。

そして、無意識を含めて必要とする者と知識の提供を結びつける手段こそ求められているのではないだろうか。既存の枠組みにはない発想になると思う。

現在では、財とサービス、金融の市場としてマクロでは扱われる。知識というより情報とすると広がり過ぎるかもしれないが、情報の無意識を含む需要と供給の市場という基盤の整備になるということだろう。

一定の期間拘束されるような現在の教育を念頭におくと、この柔軟な発想の取り組みは出来ない。勿論、現在の教育を否定している訳ではない。ただし、小口化すると利用の敷居が低くなることは言いたい。

この情報市場が社会から要請されているのではないだろうか。多様な取り組みを期待する。