総花

総花とは、よく言われる言葉だ。どのような状況で使うだろう。多いのは、計画段階での狙いの説明をする状況と思われる。

飲んだ勢いで言えば、優等生の作文の感じに似ている。アリバイ工作と使われる構図が同じように思える。

その暗黙の視点は、意識が非難にあると思う。非難を恐れるから、防御策として欠落に意識が集中するのだろう。だから、欠落がないように総花になると思われる。

その非難を恐れる意識とは、攻撃の意識より防御の意識が強いことは当然として、もっと素直に理解出来る解釈があるような気がする。率直なことを言えば、椅子を守る意識と似ていると思っている。よい子を演じる子供と似ているかもしれない。

抽象的な表現でしか自らの考えを説明しないのであれば、上記の率直な感想につながっているように思える。

では、ここで言う総花の意識と逆の意識とは、どのようなものだろうか。それは、椅子を守る意識とはかけ離れたものだろう。攻撃とか突破とか、ある袋小路状況を打開することだけに集中する意識と考える。

つまり、現状を肯定することを前提にする意識が総花の意識であり、逆に現状を否定することを前提にする意識が突破の意識なのだろう。極端に解釈すれば、全面的肯定と全面的否定になるが、実際には混在することになると考える。

ある領域に焦点をあてると、どちらか一方で整理して単純に区分けすることがわかりやすいとされる。しかし、このわかりやすいとは、誰の利点があるのだろう。利点を批判的に評価せず、無批判に受け入れる事態は当然なのだろうか。当然とする慣性が不自然と感じる感性を大事にしたいと思う。

コップ半分をどのように解釈するか、みたいな話があって、満杯からの見方と、払底からの見方があるように、肯定も否定もどちららの見方たであるかに依存すると思う。

総花も突破も、満杯と払底の見方の違いと似ていると思う。つまり、評価とは客観的と思うほどではなく、主観的であることを謙虚に認めることが必要なのだろう。