絵描き

絵画を描く人は、出来上がった絵画で評価される。これを極端に強調して、筆使いと構図その他に分けるとしよう。恐らく、筆使いより構図その他を絵描きとして評価するのではないだろうか。

その昔、日本の半導体が世界市場の多くを占めていた時代があった。メモリが中心で、マイクロプロセッサーを高く評価する声に対して日本のメーカーは反論していた。反論そのものはともかく、製造プロセスを重視していることが窺える。これは、筆使い重視に似ていると感じる。

世界の金融をみると、資産だけの比較なら上位になる日本の金融機関はそれなりにある。しかし、日本の金融市場が国際的という評価は余り聞かない。また、起業が活発化しているという声も余り聞かない。このようなところも、筆使い重視に似ている気がする。

ここで、改めて筆使い重視ということを考えてみよう。

絵描きとしての筆使いはわからないが、とりあえず何を描くかを問わずに、筆使いだけを評価することとしてみる。だから、例えば太さが決まってからの評価みたいなものだろう。どの程度の太さを評価するかという見方ではない。

このことを極端に強調すると、太さは明らかな評価が出来ないが、太さを決めてからの評価は明らかに出来る、という見方が成り立つように思える。そういうことだろうか。

絵画の場合、風景も人物も評価されることは否定しにくい。しかし、新規事業や新規顧客についてはどうだろうか。

もう少し話を勝手に進めると、上手な絵画と下手な絵画と分けるとしよう。絵画の部分を新規事業にしてみると、結果がわかった段階で上手と下手の区別になって、上手と下手の違いを何に求めるのだろうか。

これらのことで、何が考えられるだろうか。

一つの仮説として、確からしいこと、経験を有することについては強いが、未経験のことや不確かなことには弱いとしてみよう。

しっくりくるような感じもあるし、まだどこか足りない感じもある。

ちょっと不足気味だが、強引に進もう。

強い部分を自覚して強みを活かす道と、弱い部分を補強する道があるのではないだろうか。多分、どちらも正解なのだろう。比較優位の原理に従うこともあると思う。でも、変化することも一段の成長に必要なのかもしれない。

評価のような多数の認識は、社会的価値観みたいなものだから、文化的背景の変化をどのようにどの程度にみるかで異なってくると思う。

勝手な感性で語るなら、目の前のことに参加者全員が最適行動をとるより、目の前のことに一部、残りの一部がその次のことや長期のことを重視する行動とすることが好みではある。だから、二つの道のどちらかだけという見方はとらない。それは、好みと考える。