不満分子

不満分子という言葉は、現状に不満というだけでははく、秩序を乱す可能性を暗示しているように思える。しかし、そのような推定を除外して、単に現状に不満という意味で今回は使用する。

現状をどの範囲と特定せず、一般論としよう。不満と対照的な言葉は満足だろう。では、満足でなければ不満と考えてよいだろうか。それは不自然だ。現状認識の全てで満足してなければ、不満とみなされる使い方は自然とは思えない。

であれば、満足と不満の中間の状態を考えてみよう。その状態とは、満足ほどには現状を肯定していないし、不満ほどには否定していない状態のこと、のようになるのだろうか。言葉では肯定も否定もしないと表現出来るが、一体現状を肯定も否定もしないとは、どのようなものだろう。その求めは、実感したいという欲求があるように思える。とりあえず、その欲求は却下して、中間の状態を認めて先に進もう。

では、現状の肯定とは、どのようなことだろうか。認識出来る範囲で不満がない状態とするなら、せっかくの中間状態が批判される。この満足の説明を疑うか、中間状態を疑うか、どちらが自然と思えるだろうか。仮の満足の説明を疑ってみて、別の説明を考えてみよう。

単純に認識出来る範囲の全てを肯定すること、としてみよう。不自然と感じるのは、全てという言葉にあるような感じがする。負担感なく認識出来る範囲を肯定する、としてみよう。これはこれで、自然な感触を得られたように思える。ただ、負担感という言葉の使用で、認識を広げることに負担感があるという暗黙の前提があるようだ。

この負担感が実は重要な概念ではないだろうか。なんとなく、現状の認識についての状態を三つとして不自然さを払拭したつもりでも、不自然さが残っていたようなところが、負担感を持ち出すことで自然になったような気がする。

つまり、中間状態とは、現状を消極的に認識する状態で、肯定するとは、重大関心事で期待通りの状態であることではないだろうか。否定は期待通りではない状態であり、重大関心事以外がその逆でも影響が余りないことが含まれているのだろう。これはこれで、率直に納得する。

この説明は、重大関心事の齟齬、期待の程度の差に不満分子の要因があることを示している。本当だろうか。そんな感じはある。負担感は、どのようなものとして説明出来るだろうか。

否定することを諦めることが一つあるように思える。その逆、つまり肯定することを諦めるとは、どのようなものだろうか。期待に達しないことを認めたくないということだろうか。それはそれで、無理な感じとわかる感じが同居しているように思える。とりあえず、その解釈にしておこう。

もう少し整理すると、くっきりしてくるような感触はある。しばらくして、再挑戦しよう。