薫陶と倫理観

割と最近の書籍の損壊は、貶める目的があったとも疑われる。こんな風に扱われていると宣伝するみたいなことだ。そのような疑いを持つこと自体、なんとも脱力感を感じてしまう。

薫陶ということを考える。単なる感動ではなく、考えへの影響を及ぼすこととしよう。単に感動するだけなら、その感じる状況に限定した感情となるだろう。しかし、変化の契機とすると、影響の大きさに思いを寄せる。

では、どのような条件を要するのだろうか。直感として、高い志ということを思い浮かべた。それは、歴史上の人物とか、実際に出会った偉いと思っている人物から薫陶を受けたという話をよく聞くからだろう。

人間というより、自然とか生物とかからの影響も薫陶かもしれない。真理の追求過程で、改めて敬虔な気持ちにさせられることもあるだろう。

それらを包括的に説明する適切な言葉が浮かばないが、要するに敬虔な気持ちみたいな条件が必要に思える。この敬虔な気持ちを持たずに薫陶を受けることが想像出来ないので、敬虔な気持ちが必要としよう。

では、敬虔な気持ちになるための条件はどうだろうか。これは様々だろう。オイラーの導き出した数式から敬虔な気持ちになる人もいるだろう。偉人の話でなる人もいるだろう。別の人にとっては、敬遠するかもしれない。

だが、抽象的に考えると、敬虔な気持ちになるような倫理観みたいな背景が存在するからではないか、と考えるのだ。数式に倫理観もないが、感じる土壌として知識が蓄積されているとすれば、その知識をここで言う倫理観のようなものと考えられる。

通常使用される意味での倫理という言葉と混同するが、敬虔な気持ちを感じる土壌としての関連知識とすれば、説明することになると思う。

つまり、他人が薫陶を受けて自分が受けなければ、その倫理観を持ち合わせていないことが大いに推定出来るだろう。時を隔てて改めて情景を浮かんだ時に受けるならば、倫理観が蓄積されたと推測出来る。

ということは、偉人とされる人その人自身というより、偉人と賞賛する人がいるならば、倫理観の蓄積で偉人偉業を感じる可能性があるかもしれないということなのだろうか。これはこれで、説得力がある。

これらの仮説が成り立つとするなら、ここでの倫理観の蓄積は恩恵があるかもしれないということだろう。様々な分野に関心を持つことは、さらに知識を増やし関心を広げることになるのだろうか。恐らく、そのようなことなのだろう。

さらに強調するなら、指導者とは倫理観の蓄積を要するのだろう。そのような倫理観不在の指導者に従うことが想像出来るだろうか。

さらにさらに敢えて強調するなら、政治家に求められているのは、このここで言う倫理観の蓄積なのではないだろうか。どのような文脈で主張しているかが問われているのだろう。