理解の共有

生産性の向上とは、全生産資本を活用して生産する量が増えることとは、一面の説明ではある。潜在的といわれるゆえんだろう。

需要を満たすことで取引が成立するから、需要量が増えて初めて生産量となるから、需要も同時に増える必要がある。

当たり前のことを述べる意味は、生産性向上の抽象的理解によって、産業の高度化が必要とする論を得て、高度化の為には、知識の共有が大切という結論になることを考えている。果たして、そのようになるだろうか。進めよう。

生産量が増えると同時に需要量も増えて経済成長となるが、投入資本に応じると考えられる。減耗をどのように考えるか、は統計上の話ではなく、生産性の観点で考えることと思う。つまり、投入資本を積分的効果として考えられないだろうか、という提言があるだろう。

資本財には色々あるが、生産性向上の決定打は知識だろう。それ以外の余地は否定出来ないが、積分的に生産性向上に寄与するのは知識に限られるだろう。

関連知識は知識をより充実させるから、関連知識との接触機会は重要だ。この接触機会は様々な解釈が成り立つ。単に個人が関連知識を増やすこともあるだろうし、仕事の近傍領域を仕事の対象とする機会もあるだろう。

自己の知識の対象領域を限定するような認識のままでは、そのような接触機会を失っていると言えるだろう。つまり、関連知識の接触機会を増やすことが積分的効果という資本財の複利増加と考えられる。

周辺知識の集積地みたいに、地理的に情報交換手段的に近いことが接触機会を増やす要因なのだろう。そして、貪欲であることも要因と考えられる。さらに言えば、知識が増えることが称賛される文化的土壌が貪欲を強化するだろう。

ここで、比較優位は適用されると思う。思うが、説明の根拠を探している。つまり、直感的判断でしかない。しかし、比較優位が成り立つならば、全方面より重点的だろう。さて、どんな重点分野なのだろうか。市場性優先が基本だと思う。

好奇心の対象の偏りを認めれば、賢人の誘導ではなく結論は市場性が成り立つだろう。