長期視点

目の前はわかりやすい。わかりやすいから、多くの人に頑張っていることが理解されやすい。それに比べて次のことやその次ことはわかりにくい。だから、その為に努力していることを理解する人は少ない。

ものをつくるとき、何かを成し遂げるとき、参加者全員で頑張る姿が称賛されやすい。次やその次の努力には、その全員参加からの仲間外れになりやすい。

同一状況で単純と認識する場合と複雑と認識する場合がある。同じ人間が同じ状況で異なる判断をすることもあるだろうが、多くは人に依存して判断が偏るように思える。

その違いの要因を探ることも大事だろうが、違いの結果や影響を考えることも大事だろう。真理探求至上主義からの修正は人によっては厳しい。

目の前のことを重視する立場を短期視点としよう。その逆は長期視点と言えるだろう。

短期視点の人ばかりの成果目標は短期視点の評価での最適値になると想定する。その逆は長期視点最適値と想定出来る。

長期視点の人ばかりだと何も成果をあげない懸念を持ってしまう。その逆は尺度を広げると最適値を逃す予想をしてしまう。

どちらかだけしか選択出来ない状況ではないだろう。つまり、多くの場合短期視点と長期視点のよい点を狙った最適値になっていると思う。

個々の状況で異なるかもしれない。しかし、傾向に抗うようなことをしない限り、短期視点も長期視点も受け入れることが最適値に近いと想像する。

典型例は零戦だろう。拡張性の担保を除外してその時点の最高を求めてしまった。

次やその次の視点で状況判断すると、のびしろを考えてしまう。零戦への対抗機は優れていたと思う。逆に、零戦の次世代機は遅れたと思う。

アナログからデジタルへの移行と次世代を考えると、VTRとDVD、写真フィルムとデジタルカメラ、テレビ、と様々な分野での次世代移行は歴史として学習材料だろう。

自信と謙虚は裏表の関係ではないだろうか。実態は一つとして。過信を排し前進することが求められるなら、謙虚の姿勢は必要なのだろう。

視点偏重は謙遜を失った状態と考えられないだろうか。短期長期のどちらも受け入れて、かつ何かを選択することが求められる姿と理解する。

否定されない状況を批判されるかもしれない状況への遷移は自然な姿なのだろうか。自然な姿は原理に等しいだろう。原理としてみると、遷移は誘因を必要としていると考えられる。

酔いに任せる姿は美しくない。しかし、伝える必要を感じるなら、行動するだろう。主張は行動の一つと考える。