中国の環境問題

大気汚染以外にも色々な環境問題が中国にはある。なぜ、解消に向かわず汚染が進むのだろう。

理由は色々挙げられるだろう。だから決定的な理由もないのだろう。しかし、あれこれ考えて思うのは、解決に向かう努力より汚染に向かう努力が大きいことに尽きるということだ。

では、なぜ日本ではほぼ解決されているのだろうか。これも、同じように解決に向かう努力がより大きいからだろう。

この日本と中国の違いはどこにあるのだろうか。制度とか技術力とかの違いに求めることになるのだろうか。それほどの違いがあると考えるならば、納得することだろう。しかし、それほどの違いがあるとは到底思えない。

強調すべき違いは、解決に向かう努力が必要と感じることだと思う。汚染を放置するような生産でも問題意識を持たないから汚染が進むし、放置出来ないと考えるから汚染を防止するのだろう。

このような必要と感じる違いは構図を抽象化出来る。例えば、財政再建についても構図は似ているだろう。強い国とされる米独の国民は、危機感があるから財政再建が進展するのだろう。危機感が不足しているから日本の財政再建は進まないのではないだろうか。

なぜ、財政再建の必要性を感じないのだろうか。当事者意識がないからだろうか。この理由は説得力がある。

当事者意識を持っていて、巨額の債務を増大する選択をするのは意思だから、その意思を別の対等な考え方から批判することは納得するが、その意思自体を否定することは出来ないだろう。しかし、当事者意識を持たないということは、責任を放棄していることと同義のようなものではないだろうか。

さて、これはどのように納得すればよいだろうか。

一つは当事者意識を持たないとする認識を批判することだろう。もう一つは当事者意識を持たない理由の解明と対策の考案だろうか。さらに、当事者意識を持たないことを肯定する考え方を成立させる説明をすることだろう。

今のところ、この三択が浮かんだ。前の二つはなんとか考えられるような気がするが、三つ目は元々否定的なので難しい。

いや、多様化を肯定することを基本とするなら、複雑な社会の役割分担として、委託の取り組みと考えられるように思える。つまり、自己の役割に専念することと引き換えに他人に委託するという考え方だ。

社会の全領域で委託することなく自力で判断することは困難だろう。だから、どこかでは委託的になるだろう。

とすると程度の感覚という問題になるかもしれない。

問題が早めに顕在化させて短期的に解決するという見方と、問題解決を先延ばしして次世代は委ねることで問題を発覚しないことにする見方もあるだろう。

結局、認識のような問題になるのではないだろうか。