知識産業

知識産業に携わる者を雇用とみると費用だが、生産要素とみると資本だ。何も成果を出さないで時間を過ごすことは、結果的にはあり得る。一人で千人より多大な結果を出すこともあり得る。

今日も飲んでいるので、割り引こう。

ここでいう知識を何かで説明しよう。囲碁・将棋でいえば縦横の位置とその位置に置かれた石や駒は、単なる情報とする。そして、次に何を置くべきか、置かれたら困るのはどのようなことか、みたいな判断要素が含まれることを知識とする。

このたとえを書き込んで、初めてテレビ番組に出た人のコラムが思い出される。その身近な人の感想は、話した内容ではなくて、ネクタイとか話し方とか、枝葉末節の類ばかりだったというネタのような話だ。

囲碁・将棋で出演したら、石や駒の置き方で苦言を呈しても、配置とか次の一手とか本筋に触れない言説になると連想する。

仕事でも本筋の近傍で枝葉末節苦言居士が居るだろう。しかし、本筋を捉えていることもあるから困りものだ。

そのようなときにわかるのは、目的は何かで区別する。自身を認めることを目的とするような発言は割引対象の筆頭だろう。その場では理解されないことでも聞く人間の為と信じて厳しいことを敢えて声にする人は信用出来る人が多い。

厳しい声と非難することは、微妙に、しかし、全く異なる。対象とする人間がよくなることを目的とするか、その逆か、の違いとするなら目的は逆になるだろう。だが、表面上は同じように攻撃するような発言に聞こえるだろう。

さて、今回の話が行方不明になってしまった。

知識と情報の違いを認めるならば、ある程度リスクを負うことを前提にする。ならば、情報にだけ固執することを忌避する評価が浸透しなければ、知識を高める評価は成り立たないだろう。

次の一手が称賛されても、その次の一手で覆されることを考えるなら、さらにその次の一手で覆すことを考えるか、負けない手を考えることのように様々な選択がある。そのどれかだけが正しいと断じることは、多分困難だろう。

知識の育成を真摯に取り組むことを考えたい。