閉塞打開

もう何年も閉塞感は言われている。それを否定するつもりはないが、積極的に肯定するつもりもない。

ここでの閉塞感を定義しよう。現状に満足しないという認識を共有して、現状の変化を目的に努力しても現状の変化を達成することが難しいと感じること、としよう。

この定義では努力の中身と達成が困難とする理由が明らかではない。現状に満足しないこと自体は健全と考える。

閉塞感という言葉には、なんとなく原理を無視して成果だけに注目しているような気がしてならない。閉塞感という言葉で個別の主張を一括りにした乱暴な意見である。本来なら個別に確認する必要があることを認める。

その乱暴な意見として語るなら、成果の為の過程が存在しなければならないという主張に尽きる。変えるということは、生態系の仕組みを解明して、その解明によって仕組みの変更を考案することになるはず、という考えに基づくものだ。

平準化という効率を追求する原理が存在すると考えている。別の言葉では慣性とも言える。それに抗うことへの支持の理由は様々だろう。しかし、生態系は抗う理由を支持する仕組みが埋め込まれていることは、通常ない。従って、支持という理性の働きに期待するだけでは仕組みの変化は起きにくいと考えられる。

一応、現在は民主的政治とされる。この民主的政治を否定することは無理だろう。しかし、その民主的政治が成立する前の状況で、民主的政治を望むことを想像してみよう。大多数には、慣性が働くことが容易に理解出来よう。

簡単に言えば、喩えは悪いが、テレビのチャンネルを変える程度の手間に感じるくらいの負担感でなければ、慣性を変えることは難しいと思う。

そして、期待する変化の中身が正当と信じるなら、諦めることこそ問題だ。諦めるから簡単に閉塞感を感じるのではないだろうか。

千年以上の昔から変わらないことに挑戦する勇気も大切だ。誰も解いていない問題を人類で初めて解くことは、称賛されるだろう。

また、誰でも容易に理解出来る正当なことを実行して、しかし、誰からも称賛されないこともあるかもしれない。

何を努力すべきか、それは各人の判断だろう。成果が容易でないことに努力するより、成果を出せることに努力することが望ましいと考える自由もあると思う。

今回は、乱暴に一括りにして話を進めた。しかし、何かを感じることは大事なことだと思う。感じるから問題意識を持つし、問題意識があるから努力に励もうとするのだろう。だから、出発点のようなものだと思う。大切にしたい。