理解感

理解していることと理解していると思っていることは、微妙に違う。違いをどこに求めようか。今回は、言葉で説明出来ることは理解していることであり、説明が出来ないことは理解していないのに理解していると思っていることとしよう。

理解している内容のずれで痛い目を経験していると、相手が理解している内容を確認したくなる欲求が生まれる。また、話した内容を直ちに否定されると理解の程度を確認したくなる。

人間は自分が苦労したことや痛い目の経験と同様の分野では、理解が深まる傾向がある一方で、専門外或いは他人事のようにその分野以外では浅い理解に留まる傾向があるようだ。

以前から度々同じような話をしているが、理解のずれは不幸の原因になりやすい。最近の打ち合わせでも、ずれを感じ大体どのような問題が生じるか予想が出来る。そして、かなりの確率で予想通りになる。しかし、その予想は既に話したので、免責のつもりでいる。

話がずれそうなので修正する。不幸なずれは、理解したつもりでいることにあるように思う。以前使用した言葉である、内容の空虚な包括概念と同じことだろう。

具体例だが、当面の課題と先々の方向感を示して、当面の課題の一つと先々の一つの関係の有無に疑問を持ち出された経験がある。抽象的に関係があるかないかだけで、その関係がどのような内容なのか一切の説明をせず、有無の回答だけを迫られた。それだけではわからないとして、再度当面の課題の説明を通して言葉の意味を一つずつ確認しようとしたが、その説明自体でわからないとされてしまい往生した。

その時は、往生した時点で中断した。説明自体が理解出来ないとされて、わからない対象が何かの説明が聞けない状況を単にわからないとするだけで話を台無しにする意図と感じたからだ。しかし、説明ではなく関係の有無の回答として、それでは回答になっていないとする旨のそれではわからないという言葉だった可能性があることにも思える。ただ、その解釈では再度の説明の目的を相手が無視していることになるから、ちょっと不合理ではある。

この具体例で言いたいことは、関係の有無というだけで通じるとする相手に対して、関係の内容の説明が必要とする主張が理解されていないことだ。なぜ抽象的な言葉だけで会話が成立すると認識するのだろうか。そこが疑問だ。

当面の課題を定義しているから、結果は明確で過程は不問となるだろう。関係の有無が結果に作用せず過程だけに影響するなら、課題を与えられた者だけで完結するはずだろう。そのような自然な解釈でないならあ一体どのような認識なのか想像がつかない。この想像出来ない事態は、実は真面目に解釈するとあちこち不合理で人間不信になりそうな経験である。

単純な理不尽は人間の正直な一面として理解出来る。事態を承服する意味ではない。

仕事の担当者は、成果を出す目的に即して努力するから、抽象的では済まないことになりやすい。だから、担当者を部外の立場から見ると不明確なまま進めようとしていると、その先が容易に想像出来る。大体想像する通りになるので、口をはさみたくなるが通じない経験もまた多いので閉口する。

言わないと誠実ではないような気がするし、説明が通じないことも予想つくので、免責のつもりで説明だけはするようにしている。無理に説明して、別な不幸を呼ぶよりはましだろうと無理に納得する。果たして、本当にそれでよいのだろうか。

構図を抽象的に理解すると、やはり理解しているつもりになっていることのように思える。その説明の為には、前提の知識が必要で、その知識が不足している、みたいな状況なのだろう。

以前にも似たような話をしているような記憶がある。結局、あの未解決が様々な解釈を試みているからなのだろう。仮に納得出来る解釈を探り当てたとしても、実際の成果には結びつかない。単純に仮想世界で整合がとれるだけなのだ。だから、頭の体操のネタにしている。

さて、現実に目を向けてみよう。

集団的自衛権歴史認識のどちらかを考えたかったが、明日以降にしよう。簡単に言えば、抽象的に議論しているように思え、より具体的或いは部分ではなく文脈として話題にすることが重要だと、今回の話の筋立てで考えている。

教科書で取り扱うならば、事実であることが示されなければならない。単に誰かの声だけで真実とすることには無理がある。誰かの声という事実は認めることにしても、だろう。