集団的自衛権

理解感の話で、左右の区別と似ていることを思い出した。前回の定義に従うなら、左右を言葉で説明することは難しいから理解感だけで理解していないことになる。なるほど。

さて、集団的自衛権の話をしよう。前回の筋立て通りに従うなら、集団的自衛権という言葉は抽象的で、具体的解釈は個人毎に異なると考えられる。この認識を基本とする。

様々な状況が想定されて、恐らく多数の国民が対応を望む状況もあるだろう。この対応の必要性は、砂山のパラドックスと似たような話になると思う。つまり、様々な状況を仮に指標で表現出来るとするなら、その指標に応じて必要性を感じる度合いのような指標で表現出来るみたいに考えられるだろう。

だから、肯定否定が半々のような状況の指標が難しくなるだろう。

話を複雑にするのは、様々な状況の数がどの程度か、の感覚になると思う。話を容易にする意図があれば、数件になるだろう。その逆も考えられ、意図を推定してしまうから厄介だ。

前に進むことを優先するなら、多数の支持と憲法解釈で成り立つ状況に関しては早期に効力を発揮させることへの障害を明らかにすることが最優先の行動だろう。

複雑な状況や支持が相半ばするような状況に関しては、落ち着いた議論を重ねればよいだろう。

改憲に関しては、条文変更の前に、前文への追加が必要と考えている。

個々の事例を持ち出すと話が長くなるが、国民の大多数は集団的自衛権について詳しく認識しているとは思えず、簡潔に肯定出来る事例に関してだけに絞ることが暗黙に要求されていると思う。

改版の回と同様に考えられる。少しずつ進むことが、結局は大改版より円滑になると思うのだ。

少々認識の背景を話せば、アーミテージとナイの考えが米国の主要な考えであることを願っていて、その冷静な判断と歩調を合わせるように自立の判断をすればよいと考えている。技術的な内容の開示は反対するが、安全保障の構想としての哲学は諸外国に開示すべきだと考えている。

多少踏み込んで発言するなら、文民統制が機能していなかったことが先の戦争の原因の一つであって、その反省としての統制を説明する義務が対国民に対してあるし、対諸外国への表明も期待されていると考える。それが、他国を侵害しないことを表明することと同義になるのだろう。

繰り返すが、説明は行動内容というよりも、哲学的なものだ。どの場所とかどんな行動とかを言葉にすることではない。どのような観点が存在していて、その重要性の認識とか、どのような世界を目指しているとか、そんな深い考えを言葉にすることなのだ。内容より文脈だとも言える。

なんとなく、大改版を考えてしまって結局進まないことになると予想するのは、汗をかいてる者たちを愚弄しているのだろうか。成果をあげることの手助けという親切心なのだろうか。意図は親切のつもりなのだが、他人から見ると異なるかもしれない。難しい。